「自分でさばくから、何十倍もおいしくなる」。 ロックな町の魚屋が伝えたい、ぜいたくではなく豊かな食卓
ロックバンド「漁港」のヴォーカリストでもあり、あの「さかなクン」さんとも交流を持つ、ちょっと変わった魚屋の店主がいる。
——取材陣がそう聞いて向かったのは、千葉県浦安市の泉銀(いずぎん)さん。魚をもっと食べてほしい。日本らしい食文化を取り戻したい。そんな熱い思いを抱えて日々店頭に立つ、森田釣竿(もりた・つりざお)さんの食卓におじゃまします。音楽活動の背景から、肉とはひと味ちがう魚ならではの魅力、そしてかつての漁師町・浦安に生きる森田さんにとっての「食卓」について、お話を伺いました。
魚屋にくれば、地球がわかる
鮮魚店よりもコンビニが似合いそうな若い男性が、自転車にまたがる。前カゴからのぞくのは、マイバッグから飛び出た丸一匹のおおきな魚。やや不思議な組み合わせに取材陣が目を奪われていると、男性はそのまま颯爽と去っていった。
店内をのぞけば、こちらも一匹まるごとのイトヨリダイを紙に包んでもらっている客の姿が見える。
「半分は湯引きしちゃって……そうそう、お湯かけて氷水で締めてね。もう半分はむし焼きがおすすめ!」
地下鉄東西線で東京から千葉に入って1駅目の浦安駅から、徒歩10分。今年で71年目を迎える魚屋・泉銀(いずぎん)の三代目、森田釣竿さんの張りのある声が、しずかな住宅街に響いた。
「できるだけ魚を一匹丸ごと売って、お客さんに自分でさばいてもらうようにしてるんです、ウチは」
アジからイシダイ、ミンククジラまで、大小さまざまな魚に囲まれながら森田さんはそう語った。最近は魚屋でもスーパーの鮮魚コーナーでも、魚の下処理をしてくれる店が一般的だ。しかし——。
「日頃どれだけうまいもん食ってても、魚の内臓ひとつ取れないなんてホントに『豊か』なの? って疑問なんですよ。包丁で手を切ったり魚の骨を刺したりすることで、命をいただくリアリティがうまれる。食へのありがたみも得られる。結果、何倍も何十倍もおいしくなる」
そう言い切ると突然、「……ね!」と、魚を物色中の常連さんに水を向けた。男性はすこしおどろき、照れながら、笑っておおきくうなずいた。
昭和後期からの数十年にわたって、日本人の魚食(ぎょしょく)離れは進んでいる。2016年の消費量は、ピークである1988年の6割程度(農林水産省調べ)。日本人のライフスタイルと食文化は確実に変化している。
しかし泉銀の様子を見ていると、そのデータすら信じられなくなる。文字どおり老若男女が、ひっきりなしにやってくるのだ。「今日はなにがある?」と言いながら入ってきては、おすすめを聞いたり、前日食べた魚の感想を伝えたり。そして一匹丸ごとの魚を、豪快に買っていく。ふつうの魚屋ではなかなか見かけない光景だ。
「コロナになってからはお客さんが一段と増えたね。家でもおいしいものを食べたいから、テレワークの合間にって買いに来てくれる」
先ほど自転車で去っていった若い男性も、そのひとりだったのかもしれない。
森田さんは店頭だけでなくSNSも活用し、積極的にお客さんとコミュニケーションを取っている。
「伝えないと、伝わらないから。店でもツイッターでも、『魚食え!』『魚さばけねえやつはカッコ悪い!』って大声で主張しまくってんの(笑)。でも実際、言い続けたら、その声が届いた若いひとの意識が変わってきた。若い常連さん、多いよ」
また、森田さんの魚屋としての最大のユニークさは、フィッシュロックバンド「漁港」を結成していることだろう。「日本の食文化を魚に戻し鯛(たい)」を合い言葉に、ヴォーカリストとして精力的に活動している。
「今年で結成21年目。魚をテーマにした楽曲とかライブハウスでのマグロの解体ショーが話題になって、メジャーデビューまでしちゃった。でもね、これだって、すべて魚に興味を持ってもらうための活動だから。もう一度、日本の食卓に魚を並べたい一心で」
吉祥寺のライブに来た若者が、わざわざ浦安まで魚を買いにきたこともあった。ライブで訪れた他県の生産者と、取引をはじめることも多い。10代の鬱屈とした気持ちをぶつけるためにはじめたロックはいま、魚食を広める大切な手段となっているのだ。
とはいえ、切り身でしか魚を買ったことがないような初心者が一匹買いをするのは、ハードルが高い。ちゃんとさばけるのか、食べきれるのか……。おそるおそるそう尋ねると、「原始人だってやってたことだからさ」とさらりと返された。
「もっと不便な石包丁でね。つまり、構える必要はないってこと! やらなきゃできないのはバンドと同じ。いくらエアギターを練習したって本当のギターはうまくならないでしょ? しかも〝食〟って、サブカルチャーじゃないのよ。絶対に必要なことなんだから、本能でやれるはず。おれはそう信じてて、お客さんに『できるよ』って言ってる。そしたらみんな、やってくれちゃうんだよね」
一度丸ごとの魚を買ったお客さんのおよそ9割は、再び丸ごと買っていくというからおどろきだ。森田さんは、コチをひょいと手に取った。
「これ、平べったくて骨のかたちも変わってるよね。でも頭さえ落としちゃえば、潰れたサバみたいなもんだから簡単なの。あとは三枚におろして刺身にするもよし、次の日はぶつ切りにして鍋にするもよし。食卓にいろんな料理が並ぶのもいいでしょ。だいたい魚は包丁を入れるたびに切り口から酸化していくんだから、丸ごとがおいしいに決まってるんだよ」
魚をおいしく食べるためにはもうひとつ大事なことがあって、と森田さんは言葉を継いだ。
「旬を味わう姿勢というかね。その日の食卓は魚屋に任せちゃうことかな」
一年中同じ種類の商品が安定して並ぶ肉類とちがい、魚は季節によっても、また日によっても買える種類がちがう。「店に行かなければなにがあるかわからない」のが、魚料理のむずかしさでもある。だからこそ、魚屋にはノープランで来てほしいのだそうだ。
「『ソテーにしたいからメカジキがほしい』って言われても、そのとき獲れなかったものは出せない。当然だよね。で、がっかりして帰っちゃうひともいるんだけど、旬のおいしい魚がこんなにあるのにって残念で、残念で。都市生活をしてると季節感がつかみにくいかもしれないけど、もっと食卓を自然に委ねてほしい」
そして「伝われ」と、祈るような口調で言った。
「魚屋ってホントおもしろいんだよ。ここに来ればさ、地球がわかるんだから」
魚屋の孫、漁師の息子
「いまの若いひとは、浦安っていえばディズニーランドでしょ。でも昔は、港町——漁師の町だったのよ」
浦安には3つのエリアがある。漁師町として栄えた「元町」。第一期に埋め立てられた「中町」。そして東京ディズニーリゾートが所在する舞浜など、最後の埋め立て地「新町」。森田さんは両親とも元町出身、家業が魚関係という、生粋の浦安っ子だ。
「でも、浦安はおれがうまれる3年前の1971年、海水汚染が原因で漁業権を全面放棄してるんだよね。漁を生業とするひとはいなくなっちゃった。それ以前と以後では、町の様子もずいぶん変わったみたい」
森田さんの父方の祖父もこのタイミングで漁師をやめることに。そして、森田さんのお父さんは母方の祖父が立ち上げた泉銀ではたらくようになった。森田さんも幼少の頃から店に立ち、手伝いに励んだという。
「その日の売れ残りを食べるから、食卓は魚ばっかり。鯨をウスターソースで炒めただけ、とか。うまかったよ。なんたって新鮮だからね」
森田さんの原体験のひとつに、大晦日の年末商戦がある。家族総出で出陣し、売りまくる。その団結力は、家族を超えた戦友のようだったという。
「だから、魚のにおいがイヤでも、運動会に来てもらえなくても、家業を否定する気持ちはまったく湧かなかった」
もっとも、魚屋をめぐる状況は厳しかった。泉銀の経営も順調とは言えず、「継がなくていい」と母親から諭された森田さんは、それに従って一度は美容師として働きはじめる。しかし、別の職業に就くことで、かえって家業のかっこよさに惹かれていった。
「ホントにいいものだけを、正直に、胸を張って売れるっていいなと思ったのよ。ウソなくお客さんに向き合える。創業が古い分、仲卸さんたちとはいい関係が築けていて、ダメな魚も来ないから」
そうして、泉銀3代目として、浦安で生きていくことを決意したのだった。
いま彼が立つこの店舗は、2号店だ。1号店は浦安魚市場の中にあったが、市場自体が老朽化などの要因で2019年に閉鎖。森田さんはその2年前にこの路面店をオープンさせている。
「やっぱり、町の中に魚屋があるべきだと思ったから。昔の浦安には15、6店舗の魚屋があったってじいちゃんから聞いてたし、おれが子どものときでも5店舗はあったし。みんなが集まって、交流して……それが『ふるさとの原風景』。あれを取り戻せるのは、原風景をギリギリ知ってる最後の世代の自分だけじゃないかって。それはもう、使命感としか言いようがないかな」
泉銀の、どこかなつかしさすら感じる活気みなぎる店内は、森田さんの浦安という町への愛情のあらわれでもあるのだ。
……ということで、と森田さんは手を叩く。
「今日のごはんは、〝浦安巻〟ね!」
浦安巻と魚屋の食卓
浦安巻は、時間がないときの食事や小腹が空いたとき、おやつなど、ぱっと食べたいときの定番だという。料理担当は、女将さんの海苔子さん(本名:典子さん)。全型(21センチ×19センチ)の海苔を広げ、お米を乗せ、ざっくりと広げる。そこにかつおぶしをふぁさ、ふぁさとかけ、醤油をたらり。
「海苔は地元・三番瀬のもの。鰹節は鹿児島の『クラシック節』。ホントは削りたてがいちばんなんだけど、今日はパックね。パンパンに米乗せて、飛び出ちゃうくらいが地元流だね」
くるりと巻いて、お尻のほうを手でぎゅっとつぶす。
「はい、完成!」
浦安巻を口に運ぶと、鰹節の香ばしさがふわりと届いた。噛むと、海苔と醤油の香りとうまみが溶け、混ざる。シンプルだからこそ、ひとつひとつの素材のおいしさがストレートに弾ける。いわゆる「おかかおにぎり」のはずなのに、まったく別物だ。
「でしょ! これ、うちの子たちも大好きなんだよ。チーズを入れてもめっちゃおいしいし」
ソウルフードを手にした森田さんは、うれしそうに笑った。
森田さんご家族は現在、ご夫婦と3人のお子さんの5人で食卓を囲む。かつての「森田少年」と同じく、子どもたちはみんな魚好きだという。
「食卓での会話? ひたすら『うんまー!』って言ってるだけ(笑)。子どもたちに『うまくない!? これ! うまいな!』って。そしたらみんなもうまいうまいって口にするからね」
よく並ぶのは、マグロの手巻き。漬けにしたマグロを山盛りに用意し、地元の海苔で米と巻く。塩でしめたカツオもみんなの好物だ。いずれも「手が込んでいるわけじゃないしおしゃれでもない」が、素材のよさと家族の存在で極上の食卓になると胸を張る。
ご夫婦はお酒も大好きで、「毎日飲んで……るかな」と笑う海苔子さん。お酒にあわせておつまみをつくるのも、日々のたのしみだそう。
「これからの季節は、貝のセビーチェ(マリネ)とビールなんか最高ですよね。冷えた白ワインでもいいし」
食の話は尽きないし、そこには必ず笑顔が伴う。森田家の食卓は、魚を中心に、直球の「うまい!」があふれているようだ。それは浦安という町の、原風景のひとつにちがいない。
魚と向き合えば人生が変わる!
「100年目の泉銀を見たいんですよ」
森田さんはそう意気込む。気が早いけれど、できれば子どもたちにも継いでほしいと思っている、と。
「そのためには『魚屋かっこいい!』って思われなきゃいけないから、そんな仕事ができてるかはいつも意識してるかな。もちろん、海洋資源の問題もきちんと考えていかなきゃいけないしね」
過剰漁獲による海洋資源の枯渇は、国際的に問題視されている。数十年後、あたりまえに魚を食べられなくなる未来がやってくる可能性もあるのだ。
「だからこそサメとかエイとか、メジャーではない魚にも挑戦してるんです。おれはカッコよく『アンダーグラウンドな魚』って呼んでるんだけど(笑)、未利用魚と言われる魚もどんどん食べてほしい!」
そんな「魚食の未来」をつくり出そうとしている森田さんは、未来の食卓にどのような姿を期待するのだろうか。問うと、「妥協しないでほしい」と即答した。
「みんな、大変でしょ? 働きづめで、ストレスもたくさんあるのに、たいした稼ぎももらえねえでさ。でも、そういうイライラはおいしい食卓がゼロにしてくれるから。ちゃんと食に向き合ったら、ホントに人生変わるから。それを信じて、旬の魚を買って、料理して、食卓に並べてみてほしい」
その手伝いは、おれたち町の魚屋がするから——そんな強い思いが伝わってきた。
「食ってぜいたくじゃなくていいんだよね。豊かであれば。ほら、浦安巻なんてぜんぜんリッチじゃないけど、ちゃんといい素材を使って、鰹節を自分で削る手間までかければ最高の食事になるでしょ。こういう食の価値に気づくひとが増えたらうれしいし、そのためにもやっぱり、魚食おうぜ、自分でさばこうぜってところから伝えていくしかないね」
町の魚屋は、今日もおおきな声で「魚食え」とシャウトする。パンク・ロッカーらしい、同時に下町っ子らしいそのことばからは、魚食文化への熱意、豊かな食卓への思い、そして地元への深い愛情がほとばしっていた。
家で魚を食べるときは切り身ばかりなので、丸一匹のおおきな魚を買っていくお客さんの多さにはおどろかされました。こんなにもたくさんの方が自分で魚をさばき、調理しているのか、と。その日の偶然の出会いをたのしみ、自分の手を動かし、時間と手間をかけて豊かな食卓をつくっていこう。そんなお客さんたちの姿に、魚食の奥深さやおもしろさを見た気がします。
また、うなぎや焼鮭を提供する松屋フーズとしても、海洋資源問題にしっかりと向き合い、未来の子どもたちに魚食文化を残していかなくてはと背筋が伸びた取材でもありました。
取材:松屋フーズ・田中裕子 執筆:田中裕子 写真:小池大介 編集:ツドイ