映画『怪物』感想

映画『怪物』を映画館で見てきたのですが、率直に言って素晴らしい映画でした。

映画の第三幕で描かれた湊と依里の物語の美しさは、優しさとか儚さとかそんな言葉ではとても表しきれるものではなくて、その言葉にできなさを際立たせる子役2人の演技と映像美、そして坂本龍一さんの音楽。
感動だけで終わらずに大事なことを考えさせてくれる。
心の底から素晴らしく良いものを見たという気持ちにさせてくれる至福の映画体験でした。

忘れないうちに文章として残しておきたいと感じたので印象的な言葉やシーンを抜粋しながら鑑賞記録的に書き残したいと思います。

「 白線を超えたら地獄」

映画冒頭、シングルマザーの早織が息子湊くんに投げかけたこの言葉。
車道にはみ出さないように白線の内側を歩きなさいよという意味の何気ない言葉遊びですが、映画を見終わってみると実はこの言葉が映画全体のテーマを暗示する重要なキーワードだったということに気付きます。
社会の中で「普通」であること、大多数の人間が作り上げるその「普通」という白線からはみ出てしまうとそこは地獄のように生きづらく困難な世界である。ということを表現しています。

「誰でも手に入れられるものを幸せと呼ぶのよ。そんなものはしょうもない」

映画終盤、自分は幸せになれない、だから周りに嘘をついていると打ち明けた湊に校長先生が言った言葉です。
律儀に白線の内側を歩いて社会からはみ出さないように生きた末に掴める誰かが決めた当たり前の幸せ。しかしそんな風には生きられない一部の人間にとって、無意識に押し付けられる「幸せ」というものがどれだけ息苦しいものであるか。
この言葉とは対照的に使われたのが母親の早織が湊に言った「どこにでもある普通の幸せを掴んで欲しい」という言葉。
湊の幸せを巡って対立した早織と校長ですが、皮肉にも湊の心を救えたのは早織が「人としての心がない」と罵った校長の言葉なのでした。

嘘をつく湊と、嘘をつかない依里

湊と依里は共通の痛み、苦しみを抱える存在として描かれますが、自らの在り方、理不尽な社会への立ち向かい方がある意味対照的に描かれていると感じました。
湊は普通でない自分に対しての恐怖を抱えていて、本心を隠す、嘘をつくことで自分を守っています。
対して依里は、普通ではない自分を隠すことをしません。学校では男子よりも女子と仲良くし、同級生のいじめに対しても「思ってないことは言えないよ」とはっきり抵抗します。
2人が怪物ゲームをするシーンで、ナマケモノの「敵に襲われたときに身体中の力を抜いて痛みを感じなくする」という習性を聞いた湊は「それは星川依里くんですか?」と口にします。
湊の目には痛みに耐えながらも嘘をつかずに生きる依里がそのように映っており、そんな風には生きられない自分との間で揺れ動いていたのではないでしょうか。

しかし依里は作中で二度だけ嘘をつくのです。
一度目は保利先生の証言によって依里が湊をいじめているという疑いをかけられたとき。依里はそのことをはっきりと否定した上で保利が湊に日常的に暴力を行っているという嘘をつきます。
二度目は湊が依里の家を訪れるシーンで、父親の指示で「病気は治った、おばあちゃんのところに好きな女の子がいる」という嘘をつきます。直後に依里は湊に「ごめん、嘘」 と言いそれによって父親から再び虐待を受けてしまいます。
この二つの嘘はどちらも自らを守るためではなく、湊を守るためについた嘘です。
二度目の嘘は個人的に「病気が治った」ことではなく「好きな女の子がいる」という発言のことを指していると捉えました。その発言によって湊を傷付けてしまったと思った依里は自らの危険を顧みずにその発言を撤回したのだと思います。
自らのことを偽らずに暴力にもいじめにも耐えてきた依里が、自分ではなく湊を守るためにだけついた二つの嘘、そう解釈すると依里の心の優しさと強さに胸が締め付けられました。

靴を片足ずつ分け合って、二人だけの秘密基地で世界が生まれ変わるのを待ってる二人。
将来というタイトルの作文に込めた二人の祈りが最後保利先生に届いたことはささやかな救いだと感じました。

「出発するのかな」「出発の音だ」
生まれ変わった世界を二人が楽しそうに駆けていくラストシーンは本当に美しかった。
現実の世界はまだこんなに美しくないし、白線からはみ出した人間には過酷で苦しい世界が存在します。

この映画を鑑賞し終えた今、他者への理解と自らの生き方について深く考えさせられています。

まだまだ咀嚼しきれていない部分もあるので何度でもまた鑑賞したいと思います。

理不尽な世の中ですが、少しでも自分らしく生きれる優しい世界がどこかにあるといいなと思います

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