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《見頃》とは?

せっかく花を見るのならば、僅かに咲き綻んでいる様よりも、ほぼ散ってしまって寂しくなっている時よりも、満開に近しい状態を見たいと思うのが人情であろう。勿論、咲きかけには咲きかけの生命力あふれる瑞々しさがあり、散りには散りの美学がある。とはいえ、花見目的の旅であれば、《見頃》を予想して、その時期に行きたいと思うのがおおよその民意ではなかろうか。

先日の3月5日から13日までの8泊9日の京都旅は「梅と早咲き桜を楽しむ旅」であるはずだった。例年であれば梅はとっくに見頃、早咲き桜も咲いているであろう日程で予定を組んだ。

しかしながら2022年の京都は雪も多く、3月に入っても冬の寒さが続き、開花が遅れた。旅の後半、ようやく暖かい日が続いて一気に開花が進んだが、前半はちらほらしか咲いていない梅と桜に「こんなはずではなかった……」と頭を抱えた。

例えば、京都市街の梅の名所で1、2を争う北野天満宮。御祭神は菅原道真公である。梅の花を愛し、太宰府へ左遷される前、屋敷の梅の木に「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」と歌ったのはあまりに有名な話だ。菅公が愛した花にちなんで、境内には多く種類の梅の木があり、その数50種1500本。早咲きから遅咲きまで、長く観梅を楽しめる場所として知られている。

大鳥居をくぐり、参道を進んでいくと、冷たい空気の中にふと甘い香りが風に運ばれてきた。梅の香である。見れば境内にはあちこちで白梅も紅梅も花をつけている。ふむ、なかなかに良さそう感じだ。三光門近くにあった立て看板に「梅苑 見頃」とあった。北野天満宮の境内は無料で自由に散策できるが、梅苑など一部有料のエリアがある。その有料エリアにある梅苑が《見頃》だという。確かに自由に散策できるエリア並みに咲いてくれていれば《見頃》といっても良いだろう。

1000円の拝観料を支払い、梅苑へと入った。以前に比べてだいぶ値上がりした。しかし、2022年の北野天満宮で梅苑へ行かない選択肢は私になかった。というのも、今年、梅苑は俳諧の祖・松永貞徳作庭の「雪月花の三庭苑」のひとつ「花の庭」として新たに再興され、京都好きの間では大きな話題になっていたからだ。

江戸時代に歌人・連歌師・俳諧の祖として讃えられた松永貞徳は「雪月花の三庭苑」を日本の伝統的な美意識を体現して作庭したという。妙満寺の「雪の庭」、清水寺の「月の庭」、そして北野天満宮の「花の庭」である。ところが北野天満宮の「花の庭」は明治期の廃仏毀釈でなくなってしまう。それを残されていた庭石などを使い、本年再興させたのだ。これは是非とも行かなければ。

けれども、この日の梅苑は残念ながら期待はずれであった。梅苑の木々は自由に散策できるエリアの梅の木よりもずっと花が少なかったのだ。全体で3分咲きであろうか。確かに、中には見頃の木もあったが、遅咲きの木を考慮しても、この状態を《見頃》というにはいくらなんでも苦しかろう……としか言えないものだった。「花の庭」で新たに整備された石組みの庭園部分などは見ることができたが、《見頃》を期待していた手前、不完全燃焼である。

数日後、今年で最後となる京都花灯路に同行した京都写真家の友人へ、その一件の愚痴をこぼしたところ、

「《見頃》って主観ですからね。誰かの言う《見頃》って結構あやしいものですよ」

と言われた。その言葉に、ふと思い出す一件があった。

ある年、某所に桜を見に行った。そこは一本の桜の木の枝ぶりが大変美しいことで知られる名所であった。某所近くの商店街に置いてあった立て看板には《見頃》とあった。頃合いでいえば7分咲きで、確かにその日は《見頃》であった。が、個人的にはもう一歩咲き進んでいる姿を見たいと思った。とはいえなかなか時間が取れず、1週間後にダメ元でもう一度行った。正直、理想の咲き方は先日の来訪の翌日か翌々日だっただろうとは思いつつ、行くだけ行ってみた。相変わらず商店街の看板には《見頃》とあった。あれ、おかしいぞとは思いつつもたどり着けば、確かに桜はまだ咲いていたが花の色は褪せて、明らかに《見頃》は過ぎていた。

「どこかが発表する《見頃》という言葉より、自分の中で何本か基準木があるといいですね。そこから予想できますから。全部が全部、自分の足で稼がなくても大丈夫ですよ。今はSNSでも情報収集できるので。ただ、去年撮影したものをしれっと今日の撮影のようにあげてくる人もいるから……」

これまた別の京都写真家の友人の言葉である。四季の美しい瞬間を捕えんとする写真家たちにとって《見頃》情報は重要事項である。写真の良し悪しはテクニックもあるが、どれだけベストな瞬間に立ち会えるかが肝心だ。レタッチで白い花を赤くはできても、咲いていない花を咲かせることはできない。そうして撮られた作品は緻密な情報収集戦の成果物。ただのミーハーの私とは、《見頃》への執念も、情報への感度も違うことを思い知った。本当の《見頃》とは一筋縄ではいかない。本気の《見頃》の見極めは、実に大変なのだ。

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