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芸人か否かゲーム

ハンガリーへ行くはずが実家暮らし78日目。
"芸"という言葉には草木、植物という意味がある。

永六輔の著書「芸人」を読んでいる。
ブックオフで買った理由は100円だったことと、本の冒頭に芸人の定義として

"職業の肩書きが「芸人」という人だけではなく、いつのまにか気づいたら芸人だったという人も含める"

と書いてあったから。

「僕は芸人が好きです」
この言葉の含意にピンキリあるからなかなか恥ずかしくて言えない。けれど「職業が芸人ではない人の中にも芸人はいる」
という定義をもってすれば胸を張って好きだと言える。この定義であれば僕の好きな人はみな芸人である。

藝人、芸人

 藝という字には、僕らが思うような"何かを習って身につける技"という意味があるが、芸という字には草木、植物、という意味があるらしい。
つまり芸人好きの僕は草木のような人に憧れてるということにもなる。しっくりはこないけどなんとなくわかる。
僕にとっての芸人は、なにも面白いことを言わなくっちゃならないなんてことではない。じゃあどんな定義があるのかと問われても説明的になってしまうことが多かったが、ここは一つ草木のような人、としてしまえば深遠な解答に思われる。だから今後はそう答える。

草木のような人の定義

今まで出会ってきた人々を思い返して、あの人は芸人だったか否かゲームをしてみる。ゲームしてる中にあらゆる人物が登場する。たった一度出会った人の中にだって芸人は存在したことを知る。ただそうなると、芸人じゃない人を思い浮かべる方が難しいことも知る。僕の記憶から芸人以外が消えていっている。どんだけ芸人が好きなんだ。

芸人じゃない人、
すなわち草木のようではない人
草木でなければ人は、人たらしめている
その何かに意固地に生きる
人であらねばならない理由が
どこにあるのだろう
気付かない人が今、芸人じゃない人

自分が草になりたい人なのか、

人になりたい人なのか。

僕は芸人に敬意がある。
ただ、職業の芸人さんの中で、たとえ売れっ子だとしてもこの人、なんか芸人じゃないな、つまり草木じゃないな、人だな、って思う人もいる。嫌いじゃないけど、面白くないな。ファニーでもインタレストでもないな。アメージングでもファンタスティックでもないな。
つまり草木じゃない人って、ファニーでもインタレストでもアメージングでもファンタスティックでもない人。ってなると顔面蒼白、瞳に光りが見えず、下を向いて歩いている人が思い浮かんだ。生命力のない。

生命力っておもしろい

「芸人」の本の中に、ある男性の自殺の哀しさが書かれている。その男性は遺書に

もう演じるのは疲れた

と記した。彼は役者、俳優ではない。
父を演じ、夫を演じ、男を演じ続けて疲れた男の自殺はなんといえばいいのだろう。と著者は言っている。

芸人か否かゲームの行く先

僕が出会ったあの人が芸人か否か。ゲームするうちに、少し不安になる。
あの人は演じていたのだろうか、いや、演じていたのだろう。疲れるほど演じていたのだろうか、否、誰だって疲れるほど演じている。そんな日もある。
それと同じぐらい、演じることを楽しんでいただろうか、うん、そうであることが、芸人である。草木はその境遇に泣いたか、雨の露浴びて分からない、けれど泣き続けたか、否、泣き続けない。

コンビニオーナーのハルキストの娘
僕に不合格を通知した面接官
免許更新場で消しゴムを借りた後ろの席の人

彼らが泣き続けたか。

げいにんがすき

僕は芸人が好きです。もちろん職業の芸人が大好きで、自分もそうありたいなと思います。
けれど職業を芸人にするつもりはありません。
今のまま、気づいたら芸人になれるように頑張ります。頑張ったらダメな気がします。

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