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松野志部彦
2021年5月12日 08:55
好きな人の好きなものを、心から好きになれない自分が腹立たしい。 日の明けきらない薄暗い砂浜を、叔父がサーフボードを抱えて歩いてくる。黒のラッシュガードが、年齢のわりに引き締まった上半身を彫像のように強調していた。彼の背後に広がる海は、煌めきを失い、空との境目を曖昧にしている。夏が過ぎたあとの海は、いつもこんな感じだ。たとえ波があっても、どことなくのっぺりとして、弾みを失くしている。 濡れた
2021年5月4日 10:24
そうだ、ミカ先生のことを話そう。 彼女について語ることは、すなわち僕がこの道を歩むきっかけになった出来事を語ることでもあるからだ。 ◇ ミカ先生は、僕が小学校四年生から五年生までの間、アルバイトの家庭教師としてうちに通っていた女性だ。 彼女は当時まだ二十歳の大学生で、つまり現在の僕と同い歳だったわけだが、なんとなく年齢にそぐわない感じの人だった。子供っぽく見えるときもあれば、大人っぽ
2021年5月3日 18:45
療養所から続く野道を歩いていると、行く手に広大な麦畑が現れた。 金色の穂が丘陵を渡る風で一様になびき、さわさわと囁くような音を立てている。雲が散った空とのコントラストで地上はくっきりと輝き、まるで見事な油絵の中にいるような心地がした。「見て」わたしは麦畑を指さした。「風の通り道が見える」 斜め前を歩く彼も目を細め、風に撫でられる麦畑を眺めた。「いつ見ても、ここはすごい。まるで海みたいだ