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「もう生き返らないんだよ」「…やだなぁ」

先月、祖母が死んだ。


90歳を超えていたし、最近は入退院を繰り返していたので(言い方が不適切かもしれないけれど)ある程度予測していたことだった。くる時がきたんだと思った。






とはいえ、このnoteでは祖母の話をするつもりはない。

「祖母の死」を目の当たりにしたときの、甥っ子の話をする。




彼は、小学2年生。


母親と弔問に訪れた彼は、人生で初めて「亡くなった人」を見たわけだ。





彼の年上の兄弟は、すこし冷静だった。


一方、小学2年生のこの甥っ子は、祖母の顔を見た瞬間、時が止まったように固まった。

そしてすぐ祖母に背中を向けて、口元を押さえながら目を見開いていた。肩も上がっていたので、力が入っていたように思う。





その後はずっと、両親や近しい人にくっついたり、抱っこをせがんだりしていた。






とにかく「動揺」や「不安」がはっきり見えた。









数日後。



告別式が終わって祖母を火葬する時、私はまだ甥っ子が気になっていた。あそこまでこわばった顔をしていたわけだから…遺骨を見たら、ますますショックを受けちゃうんじゃないか、と。




その日は、私に体が触れるようにずっと立っていたり、自分から手をつないできたりすることまであった。

(もう最近は手をつないでくれることもなかったので、かなり珍しいことだ)





棺に入った祖母を、火葬する装置に見送る時がきた。

このとき、甥っ子は私の手を握っていた。



そして

「これからおばあちゃん、焼いて、骨になるんだよ」

『うん』

「こわい?」

『…わかんない。初めてだからさぁ。みたことないもん。だから、わかんない』

「そうだよね。私もいっぱい見たことはないよ、これが2回目」

『そうなの?』

なんて具合に、ちょっとだけ話をした。





火葬が終わって遺骨を骨壷におさめるときの彼は落ち着いていた。
父親に抱っこされながら、目の前で起こっていることをよく見ていた。






骨壷に遺骨をおさめる行為が終わってから、抱っこされている甥っ子は父親とこんな会話をしていた。


「あれ、おばあさんの骨だったんだよ、わかる?」

『わかるよ』

「そっか」

『…』

「…」

『あのさ、いつになったらさ、もとに戻るの?』

「…どういうこと?」

『いつおばあさんは生き返るの?』

「う〜ん。生き返らないよ」

『…』

「死んだら死んだまま、もう生き返らないんだ」

『そうなの?』

「うん」

『…やだなぁ』



『パパもママもいつか死んだら生き返らない?』

「そうだねぇ」



私はすぐ近くを歩いていたけど、なにも言わなかった。



彼なりにいろいろ感じ、彼なりに「死」を捉えていたんだと思う。




そして、「死」というものの恐怖感に、今日を境に気づいてしまったんだとも思った。





人間が生き返らないと知った時の甥っ子の「やだなぁ」には、いろんな感情が含まれていたように思えて、未だにふと思い出してしまう。



そしてその度に、自分の人生に目を向ける。




死ぬのは怖い、のかもしれない。大事な人たちも、死んだら生き返らない。一緒に笑うことも、話すことだってできない。


自分も、高齢になってから死ぬとは限らない。明日どうにかなる可能性もある。




ということをふと忘れて、適当に生きてしまうのはなぜだろう。わたしだけじゃなくみんなも、空っぽの1日を適当に積み重ねてしまうことがきっとあるはずだ。




ちなみに今日は、どんな1日でしたか。

空っぽの1日でした?


私はまぁまぁ、空っぽの1日でした。

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