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19世紀の「世界精神」がナポレオンに顕現するならば、21世紀の「世界精神」は80年代生まれの女性映画監督たちの活躍に現れる!?

1806年、「精神現象学」を執筆中にあった若き哲学者ヘーゲルは、首都ベルリンに攻め込むフランス皇帝ナポレオンの行軍を目の当たりにし、「世界精神が馬に乗っている」と日記に書いた。

実際、ナポレオンは「フランス革命の成果」を歴史に定着させ、支配下に置いたヨーロッパ全土に「フランス革命の成果」を「統一的に」行き渡らせるという「歴史的機能」を果たした。ヘーゲルが言った通り、ナポレオンこそ世界精神であったわけである。

ナポレオンという「個人」が、無自覚的に「世界精神」であったように、ひとつの現象、ひとつの事件が、引いて観てみると、当事者の思いとは関係なく「世界史的な要求」にのっとった現象や事件であるということは、おそらくある。

ひるがえって現在。2022年。プーチン世界精神だろうか? むしろ今の許されざる侵攻が世界精神の発露とは思いたくない。

では何をもって僕が「世界精神」なんて言い出したかというと、それは以下に述べるいくつかの近年の事象に寄っている。

(1)2021年4月、第93回アカデミー賞においてクロエ・ジャオ監督(女性、1982年生まれ)が監督賞をとり、その作品「ノマドランド」が作品賞を受賞。アカデミー賞監督賞に女性が選ばれるのは2009年のキャスリーン・ビグローにつづいて二度目。また同賞の脚本賞に「プロミシング・ヤングウーマン」エメラルド・フェネル監督(女性、1985年生まれ)が選ばれている。

(2)2021年7月、74回カンヌ国際映画祭においてジュリア・デュクルノー監督(女性、1983年生まれ)の作品「TITANE/チタン」がパルム・ドールを受賞。ジュリア・デュクルノー監督は、1993年のジェーン・カンピオン監督(女性、1954年生まれ)に続いて女性として二人目のパルム・ドール受賞監督となった。

(3)2021年9月、第78回ベネチア国際映画祭にてオドレイ・ディワン監督(女性、1980年生まれ)の監督作品「L’Evénement」が金獅子賞を受賞。「ノマドランド」のクロエ・ジャオに続いて2年連続女性監督の作品が金獅子賞を受賞した。また、ジェーン・カンピオン監督の「パワー・オブ・ザ・ドッグ」が銀獅子賞を受賞。

(4)2022年2月、第72回ベルリン国際映画祭においてカルラ・シモン監督(女性、1986年生まれ)の監督作品「Alcarras」が金熊賞を受賞。

(5)2022年3月28日に予定されている第94回アカデミー賞においてジェーン・カンピオン監督の監督作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」が作品賞や監督賞など12部門最多ノミネート作品となっている。

(6)その他、第25回全米批評家協会賞(2019年)において脚本賞を受賞した「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」のグレタ・ガーウィグ監督(女性、1983年生まれ)、第72回カンヌ国際映画祭(2019年)で脚本賞とクィア・パルムの2冠に輝いた「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマ監督(女性、1978年生まれ)、第70回ベルリン国際映画祭において銀獅子賞を受賞した「17歳の瞳に映る世界」のエリザ・ヒットマン監督(女性、1979年生まれ)、「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」のキャシー・ヤン監督(女性、1983年生まれ)、「82年生まれ、キム・ジヨン」のキム・ドヨン監督(女性、1970年生まれ)、「ブラック・ウィドウ」(2021年公開)のケイト・ショートランド監督(女性、1968年生まれ)、芸術作品だけではなく娯楽作品を含めて、多くの女性監督の世界的な活躍が目立つ。

これらの事象から「女性」監督の時代がやってきた。と単純に言ってもいいが、しかし重要なのは単にボリュームとして女性の数が多くなってることだけではなく(もちろん、現在の男女比率を考えればボリュームとして増えていること自体にも大きな意味があるのだが)、大事なことは、この女性監督たちが、彼女たちの作品において、過去においても現在においても、女性が踏み躙られていること、あるいは蔑ろにされていることを明示的に扱っているということであり、さらには男性社会における女性の扱いの不当さを告発している(あるいは皮肉っている)ということであり、つまり女性の復権を目指した映画を撮っているということであり、またそのような映画が評価されているということなのである。

単に評価された映画の監督が女性であったということではなくて、女性監督が女性の受ける不当性を明示的に描いた映画が世界的に評価されているということなのである。またこの「世界史的な流れ」のうえで、名匠リドリー・スコット監督(男性、1937年生まれ)が「最後の決闘裁判」という傑作を創作していることも特筆に値する。

さらにこの流れは、男性を「男らしさ」から解放するという方向にも向かっており、ジェーン・カンピオン監督の最新作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」はその先駆であり、名匠クリント・イーストウッド監督(男性、1930年生まれ)の最新作「クライ・マッチョ」もそういった目的意識を持っている。

いま時代は、性別にまつわる偏見を除去し、男女のパワーが均衡する世界を目指し、男女が互いの個性を尊重しながらよりクリエイティブな関係を築くことのできる社会を創出しようとしている。その表れとして、女性が女性の側からの発言を始めている。僕はその行動と発言を見るときに、それこそを世界精神の表れと見るのである。ナポレオンという世界精神は馬に乗っていたが、現代の世界精神はジェンダー視点を持った映画を撮っており、その多くは女性である。と僕は思う。

歴史を勉強すると、女性の偉人の数が極端に少ないことに気付く。「なぜ女性の偉人が少ないんだろう?」ネットで検索したが「男性には天才が多く、女性は普通の人が多いからだ」なんてことがまことしやかに書かれていたりしたが、そんなわけはないのであって、歴史上「女性の偉人が少ない」ようにみえるのは、歴史が「男性によって作られている」からであり、人物を評価するシステムが歴史上一貫して「男性によって作られている」からである。と僕は思う。

男女差別というペタンとした言い方はしたくないが、男女差別があるから女性が頭角を現しづらかったし、表したとしても歴史に名を残せてない。女性の能力が低かったわけでも、女性の働きが無かったわけでもない。

2022年の東宝の配給映画ラインナップ発表会見でも、女性監督の映画が1本しかないことが突っ込まれていて、そんな観点も少しも持っていなかった重役がうろたえる場面があり、「男性をそろえようと思ってこうなったんじゃない」と答弁していたが、問題は「男性をそろえよう」なんて思ってないのに「男性をそろえる」ことになってしまうことに問題があるんであって、これは意識的に変えていくしかないことだと思う。

一番は、評価する人たちの男女比率を修正することだ。映画祭の審査員とかそういうのはもちろんだが、なによりも映画作りにおいて一番の評価者はプロデューサーだから、女性プロデューサーを増やすことは急務だと思う。

評価者が男性ばかりだと結局女性監督を登用しても、その登用された女性監督たちが男性たちの判断に寄り添うようになってしまう。僕はこういった現象を「日本人が名誉白人と呼ばれること」に模して、「女性監督の名誉男性監督化」と呼んでいるんだけども、そうならないためにも、女性独自の視点を守るためにも、評価者(プロデューサー)における女性の数を増やすことを急がなければいけない。どうしても選ばれる側は大なり小なり選ぶ側の気持ちを忖度する動機がある。だから女性の意見を反映させたければ評価者が男性に偏っている状態をなによりも先に是正する必要があるのである。残念なことに僕は女性ではなく、男性で、しかも男らしさによる偏見を振りかざすことを嫌だと思っているにもかかわらず無意識に振りかざしてしまうような人間である、最近というかここ数年それを治そうとしているが、長きにわたって作られている無意識の修正はなかなかむつかしい、むつかしいがその修正は諦めていないが、まあ言うても男である、あるんだけど、女性プロデューサーがすぐには増えないだろう現状においては、その代わりと言っては何だが、多少でも、この世界史の流れを日本においても推進できる人間になろうと思っている。

ちなみに、「女性監督」「女性監督」と言ってきたが、そう言われることも、くくられることも嫌な女性が多いだろうことは想像できる。が、これはもう一旦仕方ないと思ってほしいと思う。「女性」監督は必要なのだ。女性の痛みに寄り添おうとする男性もいるだろうが、結局女性でなければわからない部分がある気がする。だから、それは嫌だというのを女性はハッキリ言ってほしいし、映画で描いて欲しい。それを鋭く描ける女性監督や女性脚本家がいま必要だと思う。歴史が女性監督の登場を促している。それは被害を受けている女性でないと描けないことがあるからだ。黒人差別の映画を黒人監督が作らねばならないのと同じ理由である。そう考えるとエリザ・ヒットマン監督の「17歳の瞳に映る世界」、キム・ドヨン監督の「82年生まれ、キム・ジヨン」には、ちゃんと非難されていてよかったと思う。映画を見て男性がこんな男にはなりたくないと思えばいい。「最後の決闘裁判」は監督が男性監督であるリドリー・スコット監督だが、大事なのはプロデューサーでもあり第三章の脚本も書いてもいるニコール・ホロセフナーが女性であることだと思う。ニコール・ホロセフナーが第三章を書いていることによってがあの映画が傑作になった。つまり「女性の痛みは男性でも描ける」ではなくて、まずは女性が描くべきなのである。男性が描けばきっとなにか男性に対して甘くなってしまう。そこまで男性は悪くないよと思ってしまうし、そう描いてしまう。だからもしあなたが女性監督で、男って本当に✕✕✕と思ったり、ムカついたり、そういうことに何度も会っているならば、それを映画で告発してほしいと今の僕は思っている(前はもっと男性に優しくてもいいんじゃないかと思っていた)。映画はたくさんの人にメッセージを届けることのできる方法である。映画は武器である。一般の人が持っていない武器である。女性監督は、同族を助けるためにも、映画というツールを持っている者の責務として、それを映画にしはじめている。

ということで、3/27、4/3、4/10、4/17の4日間、小栗はるひ監督(女性、1984年生まれ)による俳優のための実践的ワークショップを開催します。

小栗はるひ監督は、ご本人は違うと言うかもしれないが、僕から見ると「女性であることの不当性に当初から目を向け、一貫して女性の受ける扱いに対する不服申し立てをしている映画を作られている」ようにみえる(もちろん、それだけの人ではないのだが)。生まれた年も1984年であり、前段にも記したように、近年、活躍している女性監督たちの多くが80年代生まれの女性監督であることにも符合している。80年代生まれの女性監督たちが今未来を切り開こうとしている世界精神の表れであるならまさに、小栗はるひ監督はその日本代表になる人なのかもしれない。

小栗はるひ監督初期作品「パンツの華」「トゥインクル トゥインクル」「少年少女」をみて、やばいこんな天才がいたのかと驚いた(皆さんはすぐに見れる状態にはないので何とか見ることのできる状態を作りたいと思っています)。

「パンツの華」は2007年の短編作品。当時23歳の小栗はるひ監督のデビュー作である。生理(月経)というめんどくさいものを神より与えられたことを受け入れがたい少女が葛藤しつつ受け入れていく話である。これが女唐十郎とでも言っていいような奇想天外な物語となっており面白い。映像としても心地よい。女性の権利がどうのこうのという話ではないが、定期的に血を流す種族に生まれたことの理不尽さと喜びを描いている。なかなか卒業制作でこんな直截なテーマを取り扱うところにセンスを感じる。女性とは何かを問い続けていく小栗はるひ監督にふさわしいスタートである。

「トゥインクル トゥインクル」は2009年の短編作品。当時25歳の小栗はるひ監督が、水着にならないと(すなわち自らの性を売らないと)人気が出ない14歳のジュニアアイドルの少女の苦悩を描く。裸にはなりたくないが、アイドルとして人気者にはなりたい。矛盾の中で葛藤する少女をまさに当時14歳で実際にジュニアアイドルであった相坂柚希ちゃんに演じさせている。彼女の芝居がとてもいい。生きるためには有無を言わさず性を売らないといけなくなる日本社会における女性というものを描き出す。

「どんずまり便器」は2011年の長編。小栗はるひ監督の劇場長編映画デビュー作である。この映画では、これまでの監督の問題意識の延長にある問題「どうして男性は女性を便所扱いするのか」ということを描いているように思う。男性が女性を便所扱いするのは性交が愛の発露たる神聖な行為である一方排尿行為に似た愛の欠片もない排せつ行為としても行えるからであり、男性が男性都合で行う愛の行為は愛の行為を装った排せつ行為であり、だとすると新しい生命を誕生させるという神聖な行為はすべからく薄汚い行為になり、神聖なる母胎はすべからくどんづまり便器になる。そんなことを描いた映画がほかにあるだろうか。

そして、2022年、小栗はるひ監督が新作を撮ると聞きつけて僕は接触をした。詳細はまだ言えないが、とある女流作家の書いた小説の映画化である。原作も読み、小栗はるひ監督の書かれたシナリオも読ませていただいたが、「パンツの華」や「どんづまり便器」から引き続いている小栗はるひ監督の問題意識に深くつながるとともに、その先を見据えた深い人間ドラマが描かれていた。小栗はるひ監督の個人史としては2018年にご結婚をされ、2020年には女の子をご出産されている。そういった人生経験を経て、問われるべき問題がそこには描かれていた。

うまくいけば、この項の前半に書いたような流れ、80年代生まれの女性監督たちが「性にまつわる歪み」を是正しようとして作っている映画の数々に日本から加わる映画が出来上がるだろうと思う。小栗はるひ監督自身は、ご自身の映画をフェミニズム映画とか女性の権利云々というようなことで括られることを良しとはしていない。「男性や女性のというよりも、人間そのものの汚れと営みの面白さや尊さを描きたい」と言われていた。そして、そうだと思う。しかしながら、個人の思いは別として、大きな歴史の流れの中で、彼女の映画は性にまつわる歪みを是正しようという世界精神の表れのように僕には思えて仕方がない。ちなみに女性の復権というようなことを強めに僕は言ったけれども、その旗手であるジェーン・カンピオンの最新作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」が「女性の扱いの不当さ」に焦点を当てるよりも「男らしさというものが女性だけでなく男性自身をも傷つけていること」を取り扱っているように、性にまつわる偏見の是正は必ずしも性別にかかわらず時代の意志、世界精神として行われていくだろう。そういった意味でも、小栗はるひ監督は時代に選ばれた人ということができるかもしれない。ぜひとも、この現代に撮られるべき映画を小栗はるひ監督と共に作っいきたいと思う俳優たちに今回のワークショップに参加してもらいたい。映画は日本だけでなく海外でも評価されるものになることは請け合います。作品には老若男女様々な役柄がある。ので、小栗はるひ監督の作品で活躍をしたいと考えられるのであれば受講に制限はありません。

ちなみにワークショップは毎週日曜日に行われる。しかも朝と昼クラスで、今回は夜クラスはない。これは2歳になる娘さんを育てる小栗はるひ監督のご都合と、1週間に一回づつクラスをやることによって皆さんがどのように深まるか、ご自分の意識がどう深まっていくかを知りたいという小栗はるひ監督のご希望による。

小栗はるひ監督のワークショップの詳細は次のリンクよりご覧ください。


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