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「炎上」とは言い得て妙で|#49

世の中の情報を鵜呑みにしないとか、一次情報を必ず確認することは当たり前とされているのかもしれないけれど、そのもっともっと前段階の「これはこうでしょう」とか、社会通念上ぜーったいのぜったい、みたいなことを、疑ってみるという話です。

「疑」という字の語源は、片手に杖を持った人が後ろを振り返って立っている姿を描いていて、確定的なものから一歩引いて、何かを考え直すことだそうです。

例えば「炎上」というのは、意外なほど価値あるものなのでは??と思っています。炎上商法についてではなく別の視点から。

ある人の発言に対して、一定数の方が野次を飛ばしたり、全否定したり、本気で怒ったりと一見ネガティヴな印象の炎上騒ぎですが、

このような反応は、炎上側の、心の奥底で思っている自分にとって不愉快なものへの反応で、本心や感情の炙り出し。発言者側じゃなくて、自分自身への反応だと思います。

もしその炎上によって発言者側も何かしら反応があったなら、それはその人にも同様の炙り出しが起きているのだと思います。

「炎上」とは言い得て妙で、そのテーマにおいての集団的な「お焚き上げ」をしてくれているというか、それがあるおかげで、人々の意識のシフトや人類の精神進化が後押してくれているプロセスの一つなのでは?と。

炎上は、わたしたちがこれまで気づかなかったり、無意識に閉じ込めていた感情や価値観を炙り出して、それを共有して対話する機会をくれているんだ!!!と思ったりしています。

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それから最近は、もう思考って使わなくていいのでは?と、これまでの勉強や教育をモリモリと疑っています。

生成AIの出現で、仕事においては思考の多くをAIに任せるようになりました。アイデアはわたし、それについて拡散・深化させるのはAI、具現化と実装は一緒に、このスタイルがベースになりつつあります。

ほんの初めのうちは、こんなに使っていたら思考力が衰えるんじゃ?なんて思っていたんですが、元々頭脳派ではないわたしにとって、感覚がより鋭くなっているように感じています。

思考力よりも、直感や感覚を駆使する能力、五感で感じる力のほうが今後ずっと価値があるのでは??と。もちろんどっちが良いなんて比較することは野暮ですが、これまでだとなんとなく、思考力が重視されることが多かったように思います。

そう思うと、じゃあこれから体験価値は益々重要視されるし、直感的に相手を見る・感じる能力が求められたり、知らなかった人間本来の身体的能力を発見するかもしれないし、と、様々な可能性が拡がるのを感じます。

立ち止まって、これまでのことを再評価して、あたらしい視点を得ることができるのが「疑う」こと。

そもそも今日までの文明の進化も、文字も電気もない時代からの「疑い」の積み重ねで、先人たちの好奇心と探究心の結果。

考えを固定せず、疑い続けることは学び続けること。
いつかあらゆるものの概念が変化する可能性を、楽しみにしています。


この記事は2023年の「豊かさ」に必要な8つのことの中の
7.学び続けるを補完する:#49【疑う】を説明する内容でした。元になる記事はコチラ▼

次回は新章7.学び続ける#50【みんな先生】について書きます。

読んでいただき、ありがとうございました!

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