【短編】大げさコマ劇場
「もう嫌だ」
とあるコマ劇場。その看板を作っている大道具の中沢さんは筆を投げだしそうになっていて、今にも泣きだしそうだった。理由を聞こうと私は缶コーヒーと灰皿と、それと彼のお気に入りのお菓子を持って現場を訪ねた。
「アンさん、私もう、書きたくないよ。こんなの」
私は中沢さんにアンさんと呼ばれているが本名は安田である。あだ名をつけてもらったのは数年前で、ようやく中沢さんに認められたころ。そこからしばらく一緒に仕事をしてきたのだけれど、最近、こんな感じで筆を置くようになってしまった。
「中沢さん・・・気持ちは分かりますが、仕方がないことです。看板は分かりやすく、そして目に入って、そして叩いて貰える。そういう物にしないといけないんです」
中沢さんはこの道30年のベテラン。看板のデザインも文言も、それから設置場所まで全てを任されている人だ。この人にへそを曲げられたらこのコマ劇場はつぶれてしまうか漏れしれない。
「・・・黄色と赤と、それからヤバいと、○○ですと・・・・。一体この看板に何を持たせればいいんですか?私にはそれが分からんのですよ」
中沢さんが筆を投げだしそうな理由は私にはわかっている。痛いくらいに分かっている。だけれどもそれが一番わかりやすいと、人を引き付けると、そういう風になってしまったもんだから困ったもので、本当は私だってこんな看板デザインの依頼はしたくなくて、悔しい気持ちで一杯なのですが、仕方がないのです。私の気持ちを中沢さんに伝えると、わかってくれたような、わかってないような、納得はしていないでしょうが、仕方のないことで。それは私たちがサラリーマンでしかなくて、誰かの言いなりになって働いているからでもあって・・・という風に感じるのです。
現代に時間が流れて、他人に何かを提供するということは目立つことへと変化してきた。それは魅力ではあっても、未力ではないということ。まだ見たことがない力を見たいというのではなく、単に魅せてくれるもの、魑魅魍魎のようなそんな世界ではなく、わかりきったものを見たいという感覚にすり替わってきた。
私も街を歩いていると、トンデモナク派手な看板ばかりが目に入って、めまいがすることがあるけれど、それって逆に印象に残るというか、店に入ってみたいと思うより「何をしているのか」というのが分かるようになった証拠でもあるわけで。
中沢さんは私にずっとこんなことを言う。
「・・・釣りに例えよう。昔の看板は生エサだった。でも、今の看板はルアーなんだよ。匂いがしたんだ。昔の看板は。生々しくてどこか臭い。そんな匂いが。でも、ルアーはそれもきれいさっぱり落とされて、疑似的に〝これはエサ〟って思わされるような配色で、わかりやすくなった。確かに手間はない、生エサは生きてるからね。扱うのも大変だ」
中沢さんはそういうことを昔から私に語ってくれた。でも、ここはコマ劇場。そして会社。逆らうわけにはいかない。私はそうやって中沢さんが定年退職するまでの間、こうやってたまにガス抜きをしながら、愚痴を聞きながら仕事をしてもらった。
そうすることが私にできる唯一のことだから。
それから十年。時が経った。私が眺めるのはペンキの匂いがする作業場ではなく、カタカタと音の響く事務所の中で、若手を見ながら彼らが作る動画の管理をしていた。
そして私は意識しないでこんなことを呟いてしまった。
「・・・もう嫌だ」
私は派手なサムネイルに踊っている動画サイトを見ることが嫌になってきたのだ。
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