バーと、妄想と、除光液と。

あれは20代半ば。朝、目が覚めて。さあ歯を磨こう!としたとき。歯ブラシを持つ手に違和感が...。ワオッ!あれっ?爪にピンクのマニキュアが塗られている!しかも両手の指すべて! (親指+人差し指+中指+薬指+小指)×2=10本ぜんぶだ!

当時の私は、200名ほどスタッフがいる広告制作会社(バブル崩壊後に倒産し、今は存在しない)で、コピータイターとして働いていた。大阪に本社があり、東京から九州までグループ会社があった。いわゆるデザイン会社だけでなく、イラストの会社、写植(懐かしい...時代ですね!)の会社、カメラマンのスタジオなど、10を超える系列会社。マス媒体(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・駅貼りポスター等)の広告をつくっている会社もあったが、私が在籍したのは、ほぼSPの会社。旅行パンフレット、カタログ、チラシ、会社案内...。あぁ、いつか、ポスターのコピーを書いてみたいな! CMとまでは言わんから、新聞や雑誌広告の企画やらせてくれんかなぁ...なんて、悶々とした日々を送っていた。

マニキュアが塗られた爪に唖然としたのち、少しずつ昨夜の記憶が蘇ってきた。前日まで、旅行パンフレット3冊(!)の制作に携わっていた。しかもクライアントは別々の3社(!)で。しかし行き先はすべてハワイ(!)という荒仕事。いま考えるとアカンやろ...ってハナシだが、みんながみんな忙しく、行きがかり上、私がぜんぶ引き受けるしかなかった。何日か徹夜し、三社三様にコピーを書き分け、どないかこないか入稿を終え、その安堵から、ひとり打ち上げとして、滅多に行かないバーに行ったのだった。そこでの出来事だ。

大阪は心斎橋の、カウンターしかないバー。初めていく場所だ。客は誰もいなかった。マスターと世間話をしながら、ウイスキーをロックで。銘柄は思い出せない。まぁまぁ酔ったかも?となった頃、カランコロ〜ン♪と女性客が入ってきた。常連さんらしい。2席ほど離れた場所に座ったが、しばらくして「せっかくだから、一緒に飲みませんか?」と言われた。20代半ばの男に断る理由などない。高揚感がバレないよう、平静を装い、さりげなく「いいですね。どうぞ」とだけ言った。

お互い自己紹介をして、これまた世間話をした。彼女も少しずつ酔ってきたのだろう。だんだん饒舌になってきた。私の手をマジマジと見ながら「すごく綺麗な手ですね!指が長〜い!」と、握ってきた。「あ、そうだっ!いいコトしてあげる!」と言ったかと思うと、バッグからマニキュアを出してきた。そしてケラケラ笑いながら、私の爪を一つひとつピンク色に染めていく。この後、どんな展開が!?20代半ばの男は、妄想が膨らみ、興奮した。が。しかし。だけど。すべてにマニキュアを塗り終えると、「やっぱり綺麗やわぁ。いい感じやわぁ。はぁ〜楽しかった。ありがとう!おつかれさま!」と、何もなかったように帰っていった。取り残されてしまった20代半ばの男は、呆然としたのち、ただ笑うしかなかった。マスターに「彼女、いつもあんなコトするんですか?」と聞いたが、「いや、全然。あぁいうタイプじゃないんで、私も驚きました」ですって。だいぶ酔っ払った20代半ばの男もバーを出て家に帰り、風呂にも入らず、そのまま寝てしまったらしい。

全貌をほぼ思い出したのはいいけど。じゃあ、このマニキュア、どうすんの?どうやったら落ちるの?石鹸でゴシゴシしてみたが落ちない。今ならネットで調べて...となるのだろうが、出勤時間が迫ってくる中、どうしよ?どうしよ?このまま出社したら...どうなる?どうなる? 焦り、困り果てた挙句、あっ、そうだ!と、ペンケースからカッターを取り出し、爪に塗られたマニキュアを削っていった。ピンクの粉がティッシュの上に積もっていく。爪の表面はボロボロになったが、どうにか、なんとかなった。その作業のおかげか、二日酔いも薄まっていた。

しばらく日数が経ち、同僚の女性デザイナーとの会話で、“除光液”なんていう便利なものがあり、コンビニでも売られていると知った。しかし、あの朝、除光液をレジに置く20代半ばの男の爪がピンクに彩られていたら、店員はどう思っただろう?
妄想は膨らむが、さすがに55歳になったオッサンに今さら試す勇気などない。あれから約30年、かのバーにも行っていないし、当然のごとく彼女にも会っていない。どちらとも、一夜限りの関係。しかし、除光液を使っても消せない記憶だ。

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