私の記憶を失った母との最後の会話。

2018年の今日、母を見送った。まだ3年という気もするし、もう3年という思いもある。昭和12年生まれで、あと少しで81歳になるところだった。その15年以上前に父を亡くし、少しずつ母は、引きこもりがちになったらしい。2005年、私が結婚式を挙げたときは、まだ兆しはなかった。と、離れて暮らす私には思えた。4人兄弟(姉・兄・私・弟)の中で、私ひとりが故郷(兵庫北部の田舎町)を離れ、大阪で暮らしていた。他の兄弟、特に母と同居していた兄や義姉は、何かしら気づいていたのかもしれない。

2009年、私たち夫婦に待望の赤ちゃんが誕生し、大阪の住吉大社でお宮参りに来てくれた母は(今になって思えば)、初期症状が出始めていたのかもしれない。「私は今、いろいろおかしいところがある。複雑なんや」と話してくれた。それ以降も、電話や手紙で「私は複雑」という言葉をよく使った。大阪と兵庫の北部。近いといえば近いが、クルマを運転しない私にとっては微妙な距離だ。夏休みか冬休みには...と思いつつ、妻の実家の高知に帰ることも増えた。そっちのほうが、遥かに遠いけれど。それでも2年に1回ぐらいのペースで帰省した。10人いる孫の中で、いちばん最後に生まれた私の息子をおんぶしてくれたり、あやしたり、話をしたり。ときどき「?」と思える行動や会話もあったが、もう歳も歳だし...ぐらいに思っていた。

息子が何歳になった頃だろうか?母が認知症だと聞かされた。できていたことが、できなくなる。途切れ途切れの記憶が、つながらなくなる。そして徐々に、断片的な記憶も失っていったようだ。一緒に住んではいない私は、認知症の進行や経過につき合えていない。認知症と知らされて初めての帰省だったと思う。症状が一気に進んだ母が、そこにいた。同居していた兄によると、「もうワシらのことも、わかっているか?わかっていないのか?よくわからん」ということだった。日中はほぼ寝室で横になっていて、食事の時間には起こしてご飯を食べさせ、忘れないように薬も飲ませる。しばらくすると寝室に戻り、また寝る。その繰り返しだったらしい。ただ、ほとんど寝たきり状態だったため、徘徊してどこかにいなくなる...ということはなかったようだ。そんな母を目の前にして、私は話すべき言葉を失った。私が誰かわからない母と話すことが怖かった。話す機会もなかった。

あれは母が亡くなる3年前だから...2015年の正月休みだったか。久しぶりに兄弟とその子どもたちが実家に集まり、宴を催した。みんなで餃子を包み、焼き、ビールやらハイボールやらワインやら...とにかくワイワイ飲んで食った。そこに母もいた。賑やかで楽しい雰囲気のせいか、いつもなら、自分の食事が終わるとすぐ寝室に戻る母が、みんながいる部屋の端にある椅子に座り、にこやかな表情でこちらを眺めていた。酔った勢いもあり、私は思い切って母の隣に座って話しかけた。

「ワシが誰かわかる?」「さぁ...どなたさんでしたかなぁ?」「お子さんは何人おったんですか?」「3人やったか...4人やったか...」「旦那さん...文男さんのことは覚えてる?」「そりゃあ、よう覚えてますわぁ!」「いい人やったんですか?」「いい人でしたわぁ」「文男さんのこと、愛していたんですか?」「もちろん愛しておりましたわぁ!」

母が他人行儀な話し方をするので、私も母と話すというよりは、ある年老いた女性にインタビューするような口調になってしまった。母は...目の前にいる息子の私のことは覚えておらず、しかし、もう何年も前に亡くなった父のことは覚えていて、うれしそうに話す。その時だけ記憶がつながったのか?父の記憶(の一部分)は失うことがなかったのか?複雑な気持ちではあったが、母と会話している。それだけで感極まり、涙が溢れた。泣いている私に、「どうして泣いてるの?」と聞くこともなく、母は和やかな顔で、またみんなのほうを見ている。とても短かったけれど、永遠のようにも感じた時間。私のことは思い出してくれなかったけど、とても幸福だった時間。その後、母と、会話らしい会話をすることはなかった。今年も、また冬がきた。母を見送った3年前の今日、故郷は雪だった。

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