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やってやれないことはない4話 『やれる理由を先行させる』

皆さん、自衛隊ってどんなことしているか知っていますか。

入隊すると3か月間は教育隊所属となり、毎朝6時の起床ラッパで起き、5分以内に着衣、5枚の毛布と2枚のシーツを整理整頓。駆け足で外に出て点呼1・2・・
点呼報告。そのあとすぐに4km程度のマラソンで部屋に帰ると、整理整頓ができていない物は窓から外の芝生に投げられています。

そんな具合で毎日が過ぎ、銃器の分解手入れや自衛官として知っておかなければならない基礎事項を叩き込まれ、あっという間の3か月です。

その後は、各職種によって専門性の高い隊内の学校課程に進みます。
私が目指した職種は航空管制官。一番パイロットに近く即役立つ職種だからでした。
英語試験に合格すれば、選考に入ることになっていました。
英語試験はパスして、さあ行くぞとの心構えができたころ、横やりが入りました。

班長に呼び出された面接でこの職種を譲ってやってほしいとのこと。
誰に。
私は18歳でしたが、その本人は23歳。母親が来て結婚させるので本人希望の職種に行かしてやってほしいとのことでした。
23歳の同期の英語の点数は最下位。
憤りを超えて理不尽な番狂わせに愕然としていたことを思い出します。
私の性格から、基本に考えを戻してみました。

私は何のために航空自衛隊に入ったのか。『原点回帰』
パイロットになるためだから、固辞することもなかろうと考えを変え、第二希望に変更することにしました。

警戒管制の5か月に及ぶ専門の術科学校を卒業すると次は部隊配属です。
いくつかの候補地から選ぶことになりました。
結局、東京に決まり赴任し、24時間体制の交代勤務が始まりました。

さあ、いつから航空学生試験の勉強を始めるか。すぐにでも始めたいところですが、夜勤シフト明けは眠くて頭が働かないし、日々の課業終了後、やることがそれなりにあるので、出来ないことの理由ばかりが先行し、ペンが進まない毎日でしたが、決めました。

勉強できる時間を細かく見つけ出し、『やれる理由を先行させる』ことにしました。
勉強する癖をつけるために、大学の通信教育を受けることにしました。大学レベルの知識は重要であることはわかっていましたので、さっそく入学手続きを完了し細切れの時間であっても継続する中で、目的の勉強をコンスタントに行っていきました。

いよいよ航空学生の受験です。一次試験は、
学科試験
適性検査
発表時には小隊長から合格を告げられ、合格通知のはがきが届いた時の感激は今も忘れません。
後は、身体検査だけです。
検査当日は万全の状態を期して臨みました。
特に引っかかる検査もなく、期待は頂点にありました。
結果は不合格。何が問題だったのだろうか。
思い当たることがありません。
小隊長に確認したところ、視力が1.5と1.2だったためとわかりました。
またもやどんでん返しです。

後に小隊長から防衛大学に推薦するから入校しないかと勧められましたが、パイロットになれる見込みが無い以上、断るしかありませんでした。

その後は再受験することもなく、3年の満期となり、昭和50年退職することにしました。

第一次オイルショックは、昭和48年10月から49年8月。
第二次オイルショックは、昭和53年10月から57年4月。

日本経済激動の狭間でどう生きていくか。
果たして高卒の男子にまともな給料の取れる仕事はあるのだろうか。

このnoteは、私の人生において成功・完結・失敗・後悔などのストーリーです。 若い皆さんのヒントになればと思って書いています。 書いてほしいことがあれば、気軽にご連絡ください。 サポートは結果であると受け止めておりますのでよろしくお願いいたします。