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ダーウィンを巡って:1.エディンバラ大学まで

オックスフォード大学で博士号を取得した友人の話を紹介したが、彼は、帰国後、牧師さんを養成する学校に通い、資格を取得して現在牧師として活動している。

牧師つながりで紹介したいのが、『種の起源』を発表し、19世紀中葉のヨーロッパ世界を激震させ、その後の世界観を変えたチャールズ・ダーウィンである。

ダーウィンは、牧師になるためにケンブリッジ大学のクライスト・カレッジ(Chrisit's College)で学び、優秀な成績で卒業している。

そんな彼であるが、その後、キリスト教神学を真っ向から否定するような進化論を唱え、イギリス国教会と対立するようになる。その生い立ちを、追いかけてみたい。

注:私の投稿は、「です、ます」調と「である」調とが混在している。その時の気分で、というか、書き出しで決めている感じである。とにかくダーウィンについては、「である」という論文調で書き始めたので、ダーウィンについての投稿は、すべてこれで通していきます。

なぜダーウィン?

ダーウィンについて関心をもったのは、偶然の出来事からである。

イギリスのロンドンには、春休みごとに古書を買うために訪れていた。
10年前の3月、この年は、一緒に山歩きをしていた同僚の先生が、在外研究でロンドンに滞在しておられた。それで連絡したら、先生から、「せっかくだからダーウィンの住んでいたダウンの館までウォーキングしませんか」という誘いを受けた。

牧場のフットパスを抜け、雑木林の中を歩き、心地よい疲労感の中でようやくのことでダーウィンが40年ほど住んだダウン・ハウスに到着した。広大な庭のある堂々たる豪邸である。今は、ダーウィンの記念館になっている。

ところが何と私たちが行った日は、休館日だった。ダーウィンの記念館を見ることが目的ではなく、そもそもがウォーキングが目的だったので、あぁ、そうかと思っただけだった。

それで、外から眺めて写真を撮った。下の写真がそうである。

ダーウィンが73歳で亡くなるまで40年間住んでいたダウン・ハウス

40年間住んでいたということは、33歳での屋敷の購入である。なぜそんなことが可能なのか、そもそもどうやって生計を立てていたんだろうとか、いろんな疑問が湧いてきた。

というのは、ロンドンから最寄り駅まで1時間以上かかった記憶がある。駅からは公共交通機関はなかったし、タクシーなども見かけなかった。駅前の住宅地を抜けるとすぐに牧場である。牧場の中のフットパス(歩道?)を抜け、やがて広葉樹林の雑木林の中を1時間以上もかけて歩いてようやくのことで着いた。隣り町というか、小さな村の外れに、ダーウィンの屋敷はあった。

歩いている途中、ずっと疑問だったのが、一体ダーウィンは、どうやって勤め先まで行っていたんだろうか、どこでは働いていたんだろうかということである。

今でも不便なのに、当時だと、まず通勤できる距離ではないからである。

このダーウィン記念館(?)の中に入れなかったことが幸いした。学者としてのスイッチが入った。33歳にして、なぜこんな豪邸に住めるんだ、それもこんな辺鄙なところで、というのが、根本的な疑問で、それを解き明かそうと思った。つまり、ダーウィンの生い立ちに興味関心をもったのは、これがきっかけである。

同僚の先生とは、ウォーキングが終わってすぐに別れた。先生は、これからスリランカからの亡命者の人のインタビューの約束をしているということだった。

私は、ひとりでロンドンに戻り、すぐに大きな本屋に駆け込んだ。ダーウィンの伝記を買うためである。

生い立ち

チャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、ダーウィンと略す)は、1809年2月12日に、父ロバートと母スザンナの次男として生まれた。

父のロバートも祖父のエラズマスも開業医として成功を収めていた。母は、陶器で有名なウェッジウッド家の娘である。ダーウィン家とウェッジウッド家の両家のどちらからもそれほど遠くない、イングランド西部ウェスト・ミッドランド地方にある中世都市のシュルーズベリーに居を構える。ダーウィンは、そこで生まれた。

パブリック・スクールへ

8歳の時に母が亡くなる。姉妹4人、兄弟2人の6人を父はひとりで養う必要があった。そこで、ダーウィンは、兄と同じ私立の寄宿学校シュルーズベリー校、すなわち、月謝の高い、そういうことで言えば金持ちしか行けないパブリック・スクールに入学させられた。

7年間、この学校の寄宿生として過ごすが、成績はごく普通であったようだ。日本で言えば、中学から高校時代のことだと思われるが、銃での狩猟に夢中になっていた。
自伝で次のように書いている。

学校生活の後半に私は射撃に熱中した。どんな神聖なことであれ、私が鳥を射つのに示したほどの熱意をもちえたものが他にいようとは信じられない。はじめてシギを殺したときのことを、私はなんとよく覚えていることか。そのときはすっかり興奮してしまって、手が震えて銃にまた弾をこめるのが、困難なほどであった。この趣味は長く続き、私はかなりの射ち手となった。

ダーウィン『ダーウィン自伝』

ダーウィンの父は、息子が狩りに興じて、怠け者に育つことを恐れていた。

私には学校があまりためにならなかったので、父は賢明にも普通より早く学校をやめさせ、兄と一緒にエディンバラ大学へやった。

ダーウィン『ダーウィン自伝』

医者になるためにエディンバラ大学へ

ダーウィンの父は、シュルーズベリーの街のパブリック・スクールでは、狩りに興じて怠け者になっていると思っていたようである。それで、予定よりも2年も早く、パブリック・スクールのシュルーズベリー校をやめさせた。

この時、ダーウィンは、若干16歳である。

16歳の息子に、家業である医者になるように告げ、スコットランドのエディンバラ大学に入学させた。父も祖父も、エディンバラ大学で医学を収めていたからである。

現代においてもそうであるが、英米の有名私大では、生まれた時から多額の寄付金を収めることで、子どもの入学を確保することが可能である。つまり、金持ちは、多額の、数千万円の寄付金を払うことで入学の権利を獲得し、普通の一般の優秀な学生は奨学金が獲得できれば、進学するし、奨学金がもらえなければ、公立の比較的授業料の安い大学に行く。もちろん、奨学金が取れなければ就職と割り切っている人もいる。

閑話休題

ダーウィンにとって、ケンブリッジで医学を学んでいた兄が、医学の勉強の仕上げに一緒にエディンバラに行くことが何より嬉しかったようである。

逃亡

医学を学んで医者になるためにエディンバラ大学に入学したダーウィンであったが、医者になるためには避けて通ることができない手術が大の苦手であった。

私はまた、エディンバラで病院の手術教室に2回出席し、2つのずいぶんひどい手術を見たことがあった。その1つは、子どもの手術であったが、私はどちらの場合も手術が終わらないうちに早々に逃げ出してしまった。それ以来、私は二度と出席しなかった。・・・この2人の患者は、本当に長いあいだ絶えず心に浮かんで私を悩ませた。

ダーウィン『ダーウィン自伝』

当時は、まだ痛みを和らげる麻酔がなく、手術するほとんどの場合は怯える患者の近くには、血を吸い取るためにバケツいっぱいのおがくずが用意されていた。

医学部の学生には、手術の見学が義務付けられていたが、ダーウィンは、流れる血と患者の悲鳴に耐えることができなかったのである。ぞっとするような子どもの手術を目の前にして、とうとう逃げ出したのだ。

そして、それっきり手術室に姿を見せることはなかった。エディンバラ大学からも、つまり、医学からも逃亡したのである。

終わりに

ここまでのダーウィンの紹介では、博物学者ダーウィンの片鱗も見えてこないし、秀才のかけらも見られないことが分かるだろう。
そもそも、進学に対しての主体性ゼロである。

エディンバラ大学を逃亡した息子に対して、父のロバートは甘かった。優しい父親である。同じ父親としてそう思う。

父のロバートは、不器用な息子が何とか生きていけるようにと、牧師の道を用意する。そう、手術室から逃亡し、エディンバラ大学を中退した息子を、今度は牧師にするために、ケンブリッジ大学に入学させるのだ。

ここまですでに3,300字を越えています。ということで、この続きは、次の投稿に廻します。

何時ものことながら、最後までおつきあいいただいたみなさん、本当に有難うございました。


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