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なぜ大学の3年生の時に結婚したのか?

ここ2ヶ月、まったく何もしないままに過ごしてきている。何とか社会復帰をと思っていた矢先に自転車での自損事故を起こし、それが余計に気が滅入り鬱々とした日を送っている。完全に失速している。

そんな中、拙文に目を止めていただいた大阪の博物館の学芸員の方が、わざわざコメントを寄せていただいた。泣き暮らしている身には本当に有り難かった。ただただ嬉しかった。すごく励まされた。頑張らなきゃと思った。

それで何か投稿しようと思って、10年前のメールの文章を引っ張り出してきた。中学時代の同級生の還暦を祝う会で、中学卒業以来初めて会った友とメールで自分たちの半生を報告しあった文の一節である。

少し手を入れながら投稿します。

*見出し画像は、2013年4月、ロンドン大学SOAS(在外研究の派遣先)への挨拶を終えての帰りのスナップです。61歳の彼女です。


ヨーロッパ一人旅


私たちが結婚したのは、大学3年の冬です。

私の大学時代は、アメリカがベトナム戦争に介入し戦況が悪化するなかで、世界経済も悪化し、長い世界不況に突入した頃でした。戦後の1ドル360円の固定相場(ドル高円安)の恩恵を受け好調だった貿易も1ドル240円という急激な円高によって陰り始めた時でした。円高ドル安は、日本人の海外渡航には有利です。1ドルのものを360円で買わなければならなかったのから、240円で買える訳ですから、当然のことながら日本人にとって購買力は増しますよね。

今、円安ドル高なので海外からたくさんの人が日本にやって来るのと逆ですよね。

このような状況は、日本経済にとっては不幸でしたが、自活を余儀なくされかつかつの生活を送っている貧乏学生にとっては、旅行に、特に海外旅行に行くことができるチャンスでした。まだ大学生の海外旅行が一般的ではなかった時代の話です。貧乏学生にも海外渡航のチャンスが訪れたのです。

そこで大学3年の夏から秋にかけてヨーロッパを一人旅をしました。彼女は短大を卒業後、もう一度4年制大学に入るためにお金をためていました。その金を私の旅に出してくれたのです。正確には、会社員をしながら4年制大学を受けたのですが、残念ながら受験に失敗したので、それでそのお金を私の夢のために出してくれたのです。彼女の貯金のお陰で、それから半年、バイトを掛け持ちして旅費をためることができたのです。旅費の半分は彼女のお金です。

プロポーズ

帰国後、アパートの近くを一緒に散歩していたら、彼女が突然、「何歳で結婚するつもり?」と聞いてきたのです。
「う〜ん、30過ぎかな」と答えました。

それに対して、「あぁ、そう、私は21歳で結婚し、22歳で子どもを産むことに決めている」と言ったのです。

あまりに唐突でびっくりしました。
彼女は短大を卒業して社会人として働いていましたが、私は一浪しての入学だったので、まだ大学の3年生でした。それまでそんな話はチドもしたことはありませんでした。私自身は、大学院に進み将来は研究職につきたいと思っていましたので結婚のリアリティはほとんどゼロでした。

しかし、彼女は良妻賢母風の風貌から昔から年上の働いている男性にもてていました。職場の同僚を始めいろんな男性からプロポーズされたいたのは聞いていました。それだけに彼女の「21歳で結婚し22歳で子どもを産む」という発言は、唐突でしたがリアリティがあるのは分かりました。彼女は高校の同級生です。私はすでに22歳になっていましたが、彼女は2月生まれなので、まだ21歳でした。

それで、すぐに「じゃあ、結婚しよう」と答えました。
人生の転機は、回転寿司のように何度も回ってくることはないと思ったからです。決断の時だと思ったのです。(亡くなる前にこの時のことを尋ねました。「私の将来計画を聞いていたら結婚はいつになるか分からないから、だから決断を促した」のだそうです。)

両親の了解と説得

その翌週に両家の親の了解を得るために熊本に戻りました。彼女は働いていたので有給を使っての帰郷でした。

私の両親は、高校時代から行き来していた彼女のことをよく知っていたこともあり、彼女さえ良ければということで賛成してくれました。「学生なのに」とかということで反対することもなく喜んでくれました。

彼女のお父さんや同居していたお姉さんも、高校時代からお邪魔してお喋りをして知っていていただいこともあってか両手を挙げて賛成してくれました。しかし、彼女のお母さんが猛反対でした。彼女より10歳上のお姉さん(長女)がまだ未婚だったこともあって、なぜお姉さんが結婚するまで待てないのかというのが、反対理由でした。

彼女からは事前に、「母は、姉のことを理由に反対すると思う。そもそも姉には結婚の相手が今の段階ではいないし、何時になるか分からない姉の結婚を待つ必要はないから母の意見に押し切られないように」と念押しされていました。

とにかく彼女のお母さんを説得しなければなりませんでした。

私は、家庭の事情で大学に入ってからずっと自活していました。親からの仕送りがなかったのでバイトで自活せざるを得ませんでした。だから何よりもまず「生活力があること」をアピールしました。

そして、「大学院に進んで大学の教師を目指すつもりだが、大学の専任教員になることはすごく難しい。簡単には就職できない。だから今結婚しても10年後結婚しても状況はたぶん変わらない。つまり、10年後もたぶん就職出来ていないし、相変わらずの貧乏暮らしである。10年後も今も変わらないんだから、今結婚を認めてほしい」と説得したのです。

(この時の言葉どおり、就職出来たのは38歳の時です。結婚して16年が経っていました。塾教師や予備校講師をしていましたが、年収は100万前後でした。結婚して10数年は、風呂もない6畳4畳半のボロアパートに住んでいました。)

まぁ、今書き写しながら思うのは、理屈にもならない滅茶苦茶な理屈ですよね。

屁理屈以外の何ものでもないと、今なら思います。しかし、その時は必死でした。結果的には、両方の両親ともある意味すんなりと結婚を認めてくれ祝福してくれました。無謀ともいえる学生結婚を認めてくれた親たちが、実際に親になった立場から考えるとすごいなぁと思いますし、偉いなぁと思います。

(彼女のお母さんにこの時のことを尋ねたことがあるのですが、「迫力に負けた」と笑いながら答えてくれました。)

結婚・披露宴・新婚旅行

彼女の希望通りに、彼女の誕生日(2月13日)の前に、まだ21歳の時に籍を入れ、一緒に住み始めました。立春の2月4日のことです。

結婚式は、信濃町の浄土真宗のお寺さんで挙げました。そのお寺も初めての結婚式ということでしたが、快く引き受けていただきました。集会室を使って大学のクラスの仲間が会費制の披露宴もやってくれました。もちろん両家の両親も熊本から駆けつけてくれ祝福してくれました。4年生の4月7日でした。

大学3年の夏休みに2ヶ月半のヨーロッパ一人旅をしてきたばかりだったので、新婚旅行はそのノリでの2週間の韓国旅行に行きました。新幹線は当時岡山までしか開通していなかったように思います。披露宴に列席してくれた大学のクラスの仲間が東京駅のホーム、新幹線のホームまで見送りに来てくれました。リュックを背負っての貧乏旅行スタイルにみんな笑っていました。

岡山から下関までは夜行の急行列車のデッキに立ったままで行きました。車中泊です。関釜フェリーで一泊して韓国ソウルのユースホステルに着いた時には、すでに3日目の夜になっていました。

旅行の計画はまったく立てず、宿泊先も着いた後探すという、学生の貧乏旅行のスタイルでした。大学はすでに始まっているというのに、2週間の旅でした。

10年前ロンドン大学SOASに在外研究した時は、自分の専門領域のところを中心にギリシア、トルコ、イタリア、アイルランドなどを廻ったのですが、その時は彼女がネットを使ってコーディネートをしてくれました。格安航空券を購入しての旅だったので、東京から箱根旅行するような値段で行けました。レストランで食事をするだけの余裕がなかったので、市場で食材を買ってきて部屋で食べるという、この時の韓国旅行と同じような貧乏旅行をしました。

新婚旅行(韓国の旅館にて、1974 年4月、22歳)

写真は、アルバムに貼ってあったものをデジカメで撮影したものです。結果、ボケボケですが・・・。


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