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学生結婚、その後(1)

「なぜ大学3年生の時に結婚したのか」という記事は、私の投稿としては例外的にたくさんの人に読んでいただいた。特に若い人、高校生や大学生の方々が読んで「スキ」を押していただいたこと、本当に感謝します。

有難うございます。

ということで、学生結婚のその後について書きたいと思います。

新居

新居は、それまでずっと住んでいた大学まで20分という新宿のアパートを離れて、京王線の調布で探しました。都心から遠く離れた郊外です。新宿から特急で16分かかったと思います。各駅停車だと40分ぐらいかかりました。大学までは1時間半近くかかるようになりました。

10数年住むことになるアパートは、六畳四畳半の部屋でした。2万3千円という家賃は、当時でも破格の安さでした。当時の私の収入は、月に5万ぐらいだったので、2万円代の部屋にしか住めなかったのです。彼女が根気よく足を使って探してくれたアパートです。

安いのにはそれなりの理由がありました。駅から徒歩で20分以上もかかるだけでなく、環境もそれほど良くない、町工場街の一角にあるボロアパートでした。

2階建て全10室のアパートでしたが、全部屋家族持ちでした。単身者の方はいらっしゃいませんでした。今からおよそ50年前(1974年2月)の話ですから、もちろん風呂はついていません。週2回、みんなで揃って銭湯に行っていました。毎日行くお金はありませんでした。近くに3軒の銭湯がありましたので代わる代わる行っていました。

そのアパートには10数年暮らしました。

結婚式と披露宴

2月4日に新居から引っ越しをしました。と同時に入籍しました。

結婚式は、大学4年の新学期が始まってすぐの4月7日に、大学のクラス(語学のクラス)の仲間、とりわけバッカスの会の仲間が中心になって会費制で挙げてくれました。結婚式に参加したのは、大学のクラスの仲間がほとんどで、それに彼女の会社の同僚の方々数名、私の数人の先輩と二人の両親です。参加者40数名の披露宴でした。

大学のゼミの先生もゼミの仲間の誰も式に呼びませんでした。それで4年のゼミが始まった時に、どこからか私の結婚がバレていて、ゼミの先生から「先生を呼ばないとは何事だ」と小言を言われたのを思い出しました。

バッカスの会

結婚式と披露宴を開催してくれたのが、バッカスの会の仲間です。私は人見知りであまり社交的でないのですが、話しかけれた人とはその後ずっと親しくしています。親しくしている仲間のひとつが、バッカスの会という訳です。ゼミの仲間とはそれほど親しくありませんでした。

卒業後もクラスの仲間、特にバッカスの会の仲間とは数年に1回は会って飲んでいます。それはなぜかというと、「俺が幹事をやる」と言って引き受けてくれている人がいて、彼がまめにみんなに連絡をとってくれるからです。

コロナがどうもインフルエンザ扱いになりそうだということで、そのバッカスの会の仲間と3月17日に飲み会をすることになりました。この記事を書いている途中に幹事から連絡が来ました。

私たちの時代は、大学に入ると同時にクラスでの飲み会をしていました。その飲み会で一気にみんなと親しくなりました。私は九州は熊本出身だったので、大分や長崎出身の友達とはお互いのアパートを行き来するほど親しくなりました。

バッカスの会は、地域性を越えた仲間です。北は北海道から南は鹿児島までの仲間で、東京出身はたった一人でした。

なぜバッカスなのか

5月の連休が終わる頃からクラスは、成績でというか、きっと真面目さでだと思うのですが、大きく3つのグループに分かれました。卒業時にそのことははっきりと分かるのですが、就職先がNHKだったり東京海上や三菱銀行だったりの秀才グループ、そこそこの成績の中間グループ、そして、私達の落ちこぼれグループに分かれたのです。留年したのは、この落ちこぼれグループです。

私たち落ちこぼれグループは、当然普段の授業にも真面目に出ません。教室に行くのは仲間を見つけるためで、仲間がいると講義はそっちのけで、喫茶店に行っておしゃべりをしたり、雀荘に行ったりしていました。

授業料から生活費まですべてを賄わなければならないのは、クラスの中で私ひとりでした。みんなバイトはしていましたが、それほどの切迫感はなかったように思います。やはり早稲田まで出す家庭の経済力は、現在でもそうですが、当時もあったように思います。

私はバッカスの会の仲間と飲みに行ったり、雀荘に行ったりする余裕はまたくなく、ひたすらにバイトしていました。ただ、講義にほとんど出ていないということでは共通していたのです。

当然成績も最低でした。

バッカスの会という名称は、つい最近聞いた話では3年の時につけたようです。バッカスというのはローマ神話の酒の神様です。ギリシア神話ではディオニュソスという神様にあたります。酒飲みの集まりなのでバッカスとつけたのですが、言葉遊びで、バカとカスの集まりだからというのが、本当の理由のようです。自他共認める落ちこぼれグループだったのです。

バカ+カスの集まり、よって、自分たちをバッカスと呼ぼうとなったようです。

バッカスの会の仲間は、ほとんど留年しました。4年で卒業したのは、66歳で亡くなった友と私だけでした。彼は書店の丸善に内定していました。二人だけで卒業式に出て、二人で大学の近くで食事をしてささやかなお祝いをしました。

バッカスの仲間のほとんどが留年だったし、単位もあまり取れていなかったので私も留年する予定でした。4年生になった時点で、フルに履修して、一つでも単位を落としたら留年でした。

なぜ留年ではなく、卒業したのかについては後ほど書きます。



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