掌編小説 『ジャズ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ』 町下樹(マチシタ ナオキ)

 ジャズ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ
                           町下 樹

 サックスの音が夜の霧に溶け込んだ。ノルウェー人がサックス、イングランドがトランペットでアメリカがドラムだった。一番前のパイプ椅子には一五歳の少年と老人が座っていた。あとは後ろにちらほらと数人がいるだけだった。老人は白く細やかな髪を後ろになでつけていた。顔の皴は決定的に深く太古から存在するクリークのようだった。少年の肌の色はこれから降ってくる初雪のように白く綺麗だった。鼻が高くほりが深い。ほんとうの年齢をぼやかすような容姿だった。
 彼らの作り出す空気の振動は音楽ではなく、ある種の音だった。それは彼らが何も考えていなかったからだ。老人は電車の旅行で眺める景色を思い出した。一瞬で過ぎ去る枯れた畑、黒く汚れた雪、割れた窓と電気のついていない民家。それらはすべてが美しかった。決して足を踏み入れることのない、平凡な絵画のような風景。もう過ぎ去ってしまったひととき。そして心の奥底では共鳴している。そんな演奏だった。
 老人はパイプ椅子の足みたいに冷やされたコーヒーを一口飲み、目を閉じた。目を閉じることで音を一つの集合体として捉えていた。激しいドラムに耳を傾けると他の音が離散してしまう。そのため彼は自分の意識を夜の底に沈めていった。瞼の向こう側から静かに揺れる蝋燭の炎が優しい光を送っていた。
 少年は演奏者と同じで何も考えずにこの音を聴いていた。息継ぎの音、サックスのキーを抑える音、トランペットのピストンパルプを離す音までが彼の耳に入った。それらの音は少年の真っ白な頭を揺らし続けた。月の欠けていく音さえ聞こえそうなほどだった。
 ドラムスティックが折れて、乾いた音を立てて地面に落ちた。でも彼らはそんなことを気にしなかった。音が闇に負けることは最後までなかった。演奏が終わると大きな拍手が響き渡った。それは各個人が感じたことの表現と、演奏者への感謝のあかしだった。
 ドラム奏者が少年の前まで歩いていき、一枚のレコードを手渡した。
「これは僕のレコードだ。君に聴いてほしい」彼はそう言った。少年は何も言わなかった。まるで言語まで忘れてしまったみたいに。ドラム奏者はそれだけ言うと折れたドラムスティックを拾い上げ、奥へと消えていった。老人はまだ目を瞑っていた。まるで風に溶けたサックスの音を探し求めるみたいに。
 
彼ら二人は一か月後ジャズ喫茶で再開した。鈍い色をした重い雲が空一面を覆っていた。老人を見つけた少年は隣のカウンター席に腰かけた。身長が足りず、座るのに少し手間取っていた。
「あれ以来、毎日彼からもらったレコードを聴いてる」と少年は言った。
「そうか。ジャズは好きか?」と老人は言った。
「わからない。でも聴いてると気持ちが楽になるんだ」
「いい聴き方だ。ところで、コーヒーは飲めるか?」
「うん」
「ジャズにコーヒーはつきものだからな」老人はそう言うと少年のためにコーヒーを一杯注文した。ピアノの音が辺りを湿らすようにスピーカーから流れていた。熱いコーヒーを少年は美味しそうに飲んだ。
「私のレコードももらってほしい」老人は二杯目のコーヒーを口にしながらそう言った。
「いいよ。でもどうやって?」
「車がある。それで君の家まで送ろう」老人は三杯分の代金を払い少年と店を出た。風一つ吹いていなかった。遠くで地面を規則的に蹴る音が聞こえた。冷たい空気を誰かが切り裂いていた。
 少年はフィアット600に乗り込んだ。スピードメーターの前には封の開いた煙草が置いてあったが、灰皿の中は禁煙車みたいに綺麗だった。車内は少しコーヒーの香りがした。三回目でやっとエンジンがかかると老人は滑らかにギア・チェンジをしてハイウェイに向かった。車は少しも揺れることはなく、まるで過去のように流れていった。
「ねえ、これかけてもいい?」少年はビートルズ3とだけ書かれたカセットを手にそう言った。
「好きなものをかけるといい」老人は言った。
 ポールが「レディ・マドンナ」を静かな声で歌っていた。ふたりは小さなライヴ・ハウスにいるように感じていた。「ガール」が次の演奏曲だったがジョンの声はだんだんと低くなっていった。
「おい、そのテープ伸びてるぜ。ひどい音だ」と老人は言った。
「このほうが沢山彼らの声が聴ける」少年は言った。
老人は黙ってエアコンの温度とカセットの音量を上げた。カタンという音を立てカセットはB面に変わった。B面の最後の曲は「デイ・トリッパ—」で、ポールが綺麗に最後まで歌い上げた。
「なあ、どうしてこんな遠くまで来たんだ?」と老人は言った。
「あなたに会えそうな気がしたんだ。それであの電車に乗ってきた」と少年は言った。
「そうか」老人はそれ以上何も言わなかった。その代わりに少年が乗ってきた電車に思いを馳せた。空の底は真冬の暖炉のように赤く、ばらばらになった雲が薪のかわりに燃やされていた。しばらくすると雲は燃え尽き、空からは光が失われていった。
「ここであってるのか?」老人は車を止めてそう訊ねた。
そこは屋根に煙突がついている小さな家だった。外装はくすんだ白で、蔦がいたるところに絡みついていた。
「うん。」少年はそう言ってドアを開け、家に向かって歩いていった。
 老人は車を降り少年のあとに続いた。家の奥は小高い丘になっていて、そこには風車小屋が建っていた。風が吹くときしんだ音をたてゆっくりと風車が回った。なにかを讃えるみたいに泣いている鳥もいた。植えてある樹のほとんどは枝ばかりで葉はついていなかった。
 家に入ると軽快なサックスがスピーカーから流れていた。外の鳥はそれに応えるように高い声で鳴いた。
 台所では少年がケトルを火にかけ、コーヒー豆を挽いていた。少年はまるで伸びきったテープみたいにゆっくりと動いていた。コーヒーの匂いが夜とともに部屋を満たした。少年はゆっくりと湯を注ぎ、できあがったコーヒーをカップに二つとりわけた。そして上の棚からスコッチをとりだし片方のカップに注いで混ぜた。少年はゲーリックコーヒーを老人に渡し、籐椅子に座った。
「うまいよ、このコーヒー。ありがとう」と老人は言った。
「うん。僕らはお互いのことをこんなにも分かり合っている」と少年は言った。
 レコードが終わり、かたんという音が聞こえた。鳥たちもどこかへ飛び去ってしまった。風は北に運ばれ、もう木々を揺らすことはなかった。丘の上の風車だけがまわっていた。まるで時間を進めているのは自分だといわんばかりに。
老人の視界がだんだんとぼやけ始めた。ウィスキーのせいなのか疲れによるものなのかは分からなかった。カップは溶け始め、暖炉の火は大きくゆらめいた。そこには完全な沈黙があった。
 老人がつぎに見たのは冷めきったコーヒーと燃え尽きた暖炉だった。部屋はひどく寒く、そして暗かった。少年の姿はどこにもなかった。老人はコーヒーを一口飲みレコードに針をのせた。美しいサックスが流れ始めた。窓からは禿げた木々しか見えなかった。風車は相変わらず回っていた。

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