超かんたんなソシュール、構造主義、言語

超かんたんなソシュール、構造主義、言語

・言葉とは何か

 言葉とは表すものと表されるもので構成される。

 何かを表すのには言葉以外の方法もある。

 言葉とは有限な記号列だ。

 記号列で何かを表せる、これは簡単なようである。

 しかし奇跡的なことと見ることもできる。

 これを奇跡的なことと見ることが出来ると、あるいはその時初めて「言葉とは何か」ということを根源的に考える準備ができると言える。

 そうでなければ皮相的で浅薄な議論しかできない。

 同時に逆な見方がセットになる。

 何かは記号列で表現できるかもしれない、ということだ。

 何かを言葉で表現できるかもしれない。

 「何かを言葉で表せる」「言葉が何かを表す」これは自明なことではない。

 言葉とは何か、人間とは何か、認知とは何かに関わる問題だ。

・学問とは何か

 学問とは何か?

 今の人類の文明水準ではきちんと表せないかもしれない。

 ただ必要条件のようなものはある。

 「言葉」だ。

 学問をするには必ず言葉が必要だ。

 言葉なしで学問が出来る時代がいるか来るかもしれない。

 しかし今は無理だ。

 言語は学問をするためのマストだ。

 多分言語化しない学問はないし、言語で記述されない学問もない。

 そこで中世大学では自由7科として言語と数学が基礎教科として必修化された。

 のちに言語学と数学からそれぞれ基礎論を追求する過程で独立に構造主義が生まれた。

・表すもの

 表すものは言葉、記号列だけではない。

 表現手段は言葉だけではない。

 絵でも音楽でも造形でも象徴でもいろいろ考えられる。

・表されるもの

 表されるもの、について人間は長らく単純な考えしか持ってこなかった。

 これが近代までの人間の制約だった。

 表されるものの実在は自明であった。

 それは普遍的なものであった。

 人間や表現の有無にかかわらず存在すると思ってきた。

 ここからの解放の第一歩を踏み出したのがソシュールだ。

・シニフィアンとシニフィエ

 ソシュールは言語学者だ。

 表すものとして言葉、記号列を考えた。

 表されるものは言葉で表現されるものだ。

 言葉で表現されるものの背後には何か普遍的なものがある、というのがソシュールの前の通念だった。

 表すものをシニフィアン、表されるものをシニフィエという。

 英語のsignの同根の言葉だ。

 ソシュールは言語学者なのでシニフィアンとして言葉、言語、記号列を考えた。

 当然、シニフィアンとシニフィエの関係を考える事になる。

 しかしソシュールはそれより前の人たちよりより根源的に考えた。

 そして新しい理論を作った。

 これを構造主義と呼んだり構造主義言語学と言ったりする。

 根源的なこととは何かというと最初に書いたことだ。

 「言葉というのは何かを表しうる」

 「何かは言葉によって表され得る」

 ということまで踏み込んで考えた。

 もっと踏み込んで考えれば

 「何かを表しうる記号列はないかもしれない」

 「何かは記号列で表しえない」

 ということまで考えた。

 これは哲学だ。

 言葉についての哲学でもあるし、哲学を言葉を使って考えたともいえる。

・言葉は何かを表しうるか?

 言葉は何かを表すことが出来る。

 これは我々の心や認知レベルの問題だ。

 人間の脳の問題だ。

 我々は言葉で何かを表せると思っている。

 しかもその何かというのは普遍的な何かだ。

 普遍的で確実で唯一無二の何かだ。

 前提として普遍的で確実で唯一無二の何かが存在しているという前提に立っている。

 一般的にそういえないのであれば特殊な場合だけ考えよう。

 聖書は絶対のものだし、聖書に記載されている神は普遍的で唯一無二のものだ。

 聖書は神を正確に表現している。

 …ということになっている。

 あるいはなっていた。

 別に聖書や神についていちゃもんをつけるわけではなくこれが分かり易い例としてあげた。

 逆に神は聖書は神を正確に表現している。

 我々は聖書を使って神を正確に理解できる。

 …という可能性がある。

 そうではない、という議論は宗教人、非宗教人を問わずありうるし実際にあった。

 しかしこれが非常に原初的な言葉や言語学についての原型だ。

 これについての批判を根源的に行ったものがソシュールの言語学でもあるし、それに対する対案が構造主義でもある。

・シニフィアンがシニフィエを作る

 記号列が何かを表すということを別の言葉で言い換えると次のようになる。

 「シニフィアンがシニフィエを作る」

 「シニフィエはシニフィアンによって作られる」

 シニフィエの表す何かがあり、か?と問いたくなるかもしれない。

 シニフィエというのを何かと一対一対応させてその何かが普遍的であると考えたくなるかもしれない。

 シニフィアン→シニフィエ=何か

 という構図だ。

 しかし中立的で公正に考えるならば

 シニフィアン→シニフィエ→何か

と考えるのが正しい。

 =というのは→かつ←、あるいは⇔、⊃かつ⊂、一対一対応、必要十分条件と呼ばれるものに等しい。

 何か普遍的なものの実在や実体性を想定しそれがシニフィエと等しいということを想定してしまっている。

 想定は予断であり仮定であり仮説だ。

 実証できないし論証できない。

 真偽を定めることが過程としてしかできない。

 論理学で言うと「仮定の導入(rule of assumption)」という過程を無意識で無自覚に経てしまっている。

 論理的でも学問的でも科学的でもない。

 ソシュールは学者で研究者だから勝手な前提は設けない。

・言葉=記号列は表現できるのか

 「言葉」「言語」という概念の前提にはそれが何かを表すという考え方が横たわっている。

 それは多くの場合無自覚で無意識だ。

 何かを表さないとすれば記号列は意味を持たないものになる。

 人間が言語を持つ必要はなかった。

 人間が言語を持ったのは記号列が何かを表すと思っていたからだ。

 ソシュールや言葉や構造主義を理解しようとするならばまずこの観点、この疑問、この問題意識を持つ必要がある。

 言葉の世界で議論できるのはシニフィエまでだ。

シニフィエ=普遍的な何かか?というのは言語学に哲学を混入させている。

シニフィアンとシニフィエはともに言語学の概念だ。

そしてそこに議論をとどめるならば全ての議論が形式主義になる。

 数学では構造主義のことを形式主義と呼ぶが言語学も同じだ。

・何かから言葉を作れるか?

 上とは違う議論を展開する。

 そもそも人間が何かを認識した時にそれを記号列にすることができるのか?

 記号列というのは繰り返すように言葉でもある。

 人間でなくても言葉をつかっているものはあるかもしれない。

 別の動物や機会とコンピュータにより作られるものだ。

 逆に赤ちゃん、重度認知症老人、精神障害や知的障害者の中には何かを記号列に出来ない人もいる。

 何かを記号列=言葉にしたとしてそれが正確か正確でないかという議論はよく行われる。

 しかしそれ以前にそもそも何かを記号列に出来るのかが問題だし、記号列に出来る能力があるかどうかがより根本的な問題となる。

・根本的な問題=哲学の排除

 上記のように言葉について根源的に考える事は人間とは何か、認知とは何か、人類の発症とは何かを考える事に通じる。

 そこまで考えなくても存在論や認識論の哲学が混入しがちだ。

 しかし哲学という夾雑物=コンタミネーションを排除して生まれてくるのが形式主義であり表面主義であり構造主義だ。

 これにより言語学は記号操作だけを扱うことになる。

 記号論理学や現代数学の形式主義や公理主義と同じものになる。

・ソシュールの理解のために必要なもの

 ソシュールの理解のためには上記のような理解が必要になる。

 古いソシュール論や構造主義言語学の理論ではコンタミが酷い。

 それではソシュールの理解は難しいし誤解されやすい。

・記号列は何かを表しうる

 現代的な言語学の出発点は哲学の存在論や認識論を排除したうえでの記号列により何かを表しうる、あるいは何かは記号列によって表されるということだ。

 ただしこの「何か」というのが問題になる。

 この「何か」が何であれ表現する記号列とこの「何か」は別なものになっている。

 「何か」だけ提示できたとしても元の記号列を正確には復元できない。

 あるいはいろいろな形で表現できることになる。

 「何か」の単独提示では記号列=言葉は復元できないので言葉を残そうと思えば言葉も同時に保存しなければいけない。

 プログラムで言えばソースコードだ。

 また「何か」を示された場合記号列はそれを正確に表現することはできない。

 アナログなものをデジタル化しても元のアナログに正確に戻すことはできないのといっしょだ。

 「何か」を正確に保存したければ言葉=記号列を残すだけではだめで「何か」自体も保存しなければいけない。

 結局言葉で何かを表現した場合も、何かが言葉で表現された場合も言葉にせよ何かにせよ正確に残そうと思えば何かなら何か自体か何かと言葉を同時に残さなければいけない。

 また言葉を残すだけでは何かは残せないのでやはり言葉を何かは同時に残さないといけない。

 両者はいったん他方に返還されると不可逆となる。

・言葉は言葉だけで世界を作りうる

 記号列は記号列だけで世界を作りうる。

 それを人間がどう思うのかは別の問題だ。

 言葉の世界と人間が接する場所、つなぐのはインターフェースだ。

 言葉の世界、デジタルの世界の事象を人間がどう感じるか、解釈するか、意味づけるかは言葉の世界とは別の話だ。

 コンピュータゲームを思い浮かべてもらえばよい。

 コンピュータゲームは全て記号列で作られている。

 色や音指定も有限な数で記号化されている。

 インターフェースでは人間の知覚に働きかけるよう光や音に返還される。

 変換の仕方はあくまでデジタルだ。

・物質の場合

 人間は物質を知覚しそれに対して表象したり思考したり感情を持ったり意欲を刺激される。

 これは人間の中の世界だ。

 逆に人間が物質を表現する際にはいろいろな方法を使う。

 その一つが記号列=言葉だ。

 人間が言葉でその物質を表現した場合、その言葉によっては他人はおろか当人もその物質を復元できない。

・抽象概念の場合

 人間は頭の中で知覚や感覚で表現できないがリアリティを感じる観念を抱く。

 それを仮に抽象概念と呼ぶ。

 それを表現しようと言語化した場合、やはり他人はおろか当人もその記号列から元の抽象概念を復元することはできない。

・感覚の言語化はデジタル

 物質を知覚する場合には感覚器のセンサーで脳に象が作られる。

 しかし表象は知覚の影響だけでなく感情や記憶や意欲や思考の影響も受けるだろう。

 その段階で元の物質とは異なる。

 また人間が何かを表彰している場合でも時間経過とともに人間の内部でもその表象は変化していく。

 表現に言葉を使えばそれは記号化でデジタルだ。

 デジタルなものは元のもの自体ではない。

・抽象概念の感覚部分

 人間が抽象概念を表象する時、昔の西洋哲学では非物質的で非感覚的なものと考える事があった。

 そうかもしれない。

 しかしそうではないかもしれない。

 人間が何かを表象する時にそれがたとえ抽象概念であり純粋に観念的なものであったとおもっても感覚的なものや物質的なものを使って表象を構成している場合はある。

・人間が表象を構成する時

 言語から離れるが人間の表象の構成を構造主義で考える事が可能だ。

 これは仏教の空の考え方や構造主義的精神分析、現在の認知科学の一部がこの様な考え方で人間の認知構造をモデル化することがある。

・人間外の構造の世界

 現在のコンピュータサイエンス、情報科学、情報工学はすべてデジタルだ。

 デジタルとは全て有限の記号列で成り立つ世界だ。

 コンピュータや機械が何かを表出する時にはアナログの物に返還される。

 ただしアナログ化の命令は厳格な仕様や要件定義によってなされる。

 色や音、操作法などお機械操作は有限な数の記号列によってなされる。

 ビデオゲームを思い浮かべればよい。

・インターフェースの問題

 コンピュータの世界は構造主義の世界だ。

 人間と接触する際にはインターフェースが使われる。

 これはアナログだ。

・人間内部の記号列

 人間が自分の内面を自分の外に表現する場合言葉を使うならばそれは文字列か音声になる。

 どちらも視覚や聴覚を使うがやはり記号列で表現する。

・コンピュータの前の時代

 コンピュータが出来て情報工学で実用化されたが実用化される前にも観念的な議論は昔からあった。

 中世のキリスト教神学の普遍論争の唯名論は構造主義の走りと言える。

 しかし構造の具体的なモデルはなかった。

 ライプニッツは記号操作の体系の実用化による演算装置とその世界観を想像したが創造の世界の物だった。

 儒学の宋学の理気論でも理という構造を想定したがやはり具体性はない。

 気は物質的、感覚的なものでそれを理という構造主義的なものが支配する。

 しかしモデルがない可能性としての法則だけでは構造主義とは言えない。

 実用化しようがしまいが具体的なモデルが必要だ。

 それは実在を排除しなければならない。

 厳密にいうと実在があろうとなかろうとどっちでもいいように形式だけを独立させなければならない。

・何かとは何か

 仮に何か普遍的なものが存在したとする。

 しかしそれは言葉=記号列で表されるのか?

 これも公平に考えればどちらの可能性もある。

 表せる可能性もあるし表せない可能性もある。

 基本的に表せると思い込んできたのが人類の思想史でもあるし一般的な常識とされてきたものでもある。

 表せないとすると別のことも考えないといけない。

・シニフィアンとシニフィエ

 シニフィアンは言語なので記号列だ。

 シニフィエ=実体や実在として混乱する場合が多い。

 シニフィエも記号列と考えた方がソシュールは分かり易い。

 それは代数学の代入のようなものだ。

 シニフィアンをシニフィエという別の記号列を用意してシニフィエにシニフィアンを代入したものがシニフィエだ。

 ここではいったん実在や実体、存在や認識といった議論を完全に切り離して記号列、言葉のルールだけを設定する。

 ルールは矛盾だらけで時間とともに変化していくのが言語の特徴だ。

 このルールのいい加減さ、時間的にも状況においても一貫性がなく変わってしまうのが数学や論理学のルールとの言語のルールの違いになる。

 その記号列から何を受取るか、どのように使用するか、ルールを改変するかは各人各様で時代により、場所や状況により変化していく。

 実体や実在、感覚や表象や物質、内容や意味は記号列やそのルールとは完全に切り離してみなければならない。

 前者は後者に影響は与えうるし実際に与えるが本質的に別物として見なくてはならない。

・ソシュールの留意点

 ソシュールに影響を受けて構造主義言語学が発展した。

 ソシュールだけから構造主義を学ぼうとすると不完全で曖昧だ。

 そこまで形が整ったものではない。

 パイオニアというのはそういうもので仏教のお釈迦さまもそうだし構造主義的精神分析のラカンもそうだ。

 ラカンは象徴という概念を使ったがこれも記号の一種と言えるかもしれない。

 現代数学のヒルベルトはその意味ではすごかった。

 殆どか完全に完成させているしそのまま計算機科学につながり実用も早かったのは数学が自然科学と言えるかどうかはともかく実学性があったからかもしれない。

 現代哲学でもしっかり整理しているのはデリダだ。

 デリダでさえ分かりにくくてもっと分かり易く整理しているのは後の人々かもしれない。

 デリダは記号論ではなく記号学というものを提唱している。

 
 

 


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