かんたんな性格と自己愛性と子育て育児教育とパーソナリティ障害

かんたんな性格と自己愛性と子育て育児教育とパーソナリティ障害

・自己愛性

 自己愛性パーソナリティ障害はめんどくさいにとどまらず有害なことがある。

 私のように自己愛性パーソナリティ障害の攻撃を受けやすい人がいる。

 私はゲーム理論のしっぺ返し戦略に従って長らく行動してきたのでやられたらやり返す。

 悪意を持って害をなす存在はエネミーと定義できる。

 悪意を持っていなくても害をなすなら防衛しないといけないこともある。

 自己愛性パーソナリティ障害の感情を悪意とするかどうかは難しいがやられた以上はやり返さなければならない。

 しかし最近しっぺ返し戦略は長期戦略で特定の相手と長期間付き合うことを前提とした戦略であることに不覚にも今更気が付いた。

 つまり短期間しか付き合わない相手には有効ではない。

 やられてやり返す。

 その後関係が続くこともあるが現代社会では変化やスピードが速いのでそれも短期だ。

 とするとしっぺ返し戦略は全く有効ではなくベネフィットを最大化しない。

 むしろ不毛だ。

 最近自己愛性の人に関わることが増えた。

 私もいい歳だし嫉妬を受けるようなことも少なくなり年下の自己愛にひどい目に遭うことは減ったようだ。

 しかし年上の自己愛にひどい目に遭う。

 50台くらいのバブル世代と言われるものだ。

 30・50・80問題と言われたりする。

 50台の自己愛の人が我々バブル世代がゆとり世代をいじめることで現代の職場うつやブラック企業問題が起きている、と自分で言っていた。

 精神科臨床をしている人だと思い当たることが多いと思う。

 自己愛は締めないと舐められる。

 自己愛は自分より上と見做すと媚び、自分より下と見ると見下し利用する。

・自己愛性の増大

 自己愛性パーソナリティ障害まで行かなくてもその傾向がある人が大勢いる。

 精神科では最近はどの障害もスペクトラムと見る傾向にある。

 精神科は異常を扱う。

 異常とは何かとは難しい問題で精神病理学の中興の祖であるヤスパースは考え過ぎたためか精神科医から哲学者になってしまった。

 一応ここでは正常とか異常とかはヤスパースの意味合いで使う。

 以上の方向性はいくらかあるか有名なものに神経症圏と精神病圏というものがある。

 神経症度の深まりを神経症水準と言い、精神病度の深まりを精神病水準という。

 神経症についてはフロイトからの精神病理学が大きな仕事をした。

 別系統にはジャネという医学者もいて両者とも19世紀の神経科学の帝王シャルコーのもとで勉強している。

 フロイトは医者だが神経医学者だった。

 現代の精神医学と神経内科/脳神経内科は当時は分かれていなかった。

 精神分析学者の努力のためか何となく普通の人に分かり易いためか神経症は普通の延長のように見做されやすい。

 神経症は今でもそうだが精神医学だけでなく心理学などの領域でも扱われる。

 もっと構造的な異常を感じられる精神病圏の研究に精神科医は熱心だった。

 だから精神病理学では神経症やパーソナリティ障害より精神病が研究のメインだった。

 明らかに精神構造が改変されている。

 精神病の研究はラカンの構造主義の導入によって現代哲学の源流となった。

 パーソナリティ障害では精神病圏と神経症圏の間、境界とされた境界性パーソナリティー障害は臨床上の需要と相まって深く研究された。

 それ以外のパーソナリティ障害研究は軽んじられたように見える。

 私も自己愛性パーソナリティ障害の病理研究を怠ったまま現在にいたってしまった。

 あまり深い病理のようには見えなかったからだ。

 歴史的には思い自己愛性パーソナリティ障害は重要で境界性パーソナリティ障害と絡めて向かく研究されている。

 病態が重たくなると正常な人であれ境界性パーソナリティ障害のようになる。

 正常な人なら余裕がなくなった時だ。

 精神的な退行と病理が関係しているのかもしれない。

 躁うつ病の急性期は境界性パーソナリティ障害と区別つかなくなったりする。

 そういう意味で言うと余裕がない度、精神的混乱や錯乱度が酷くなると精神病、統合失調症急性期のような状態になるのかもしれない。

 急性期以外に残遺症状を残さない非定型精神病と呼ばれたものは正常な人が精神的に追い詰められてなる病態と言えるかもしれない。

・現代の受験と自己愛

 自己愛スペクトラムの傾向で見ると例えば受験が自己愛と関係するのかもしれない。

 あとの文でエリクソンの発達理論と絡めて考えてみる。

 私は大学に二度行って2回目は地方医大だったが地元の中高一貫私立神学校の生徒がマジョリティだった。

 その中の最大数を誇る一校に自己愛性傾向が強かった。

 自己愛性を問題にしだしたのはその時からだが当時は精神医学の知識がなかった。

 一校目の大学も医学部は異質だった。

 どの大学であれ医学部は他の学部と交わらない。

 医者になると東大、京大、阪大、慶応などの賢い医学部出身の医者と一緒に働いた。

 高偏差値は中高一貫校出身が時代が下るほど強くなる。

 現在は一番賢い層は海外の大学に行くのかもしれないが団塊ジュニアくらいだとそれは少なかった。

 賢い大学の学生ほど自己愛が少ない。

 その中でも特に優秀な学生ほどそうだ。

 イグノーベル賞を取った研究にダニング・クルーガー効果というのがある。

 IQが高いほど自信が弱く、IQが低いほど自信が強いみたいな研究だ。

 知能が高いほどメタ認知が発達する。

 周囲にいる人も優秀な人が多いと相互比較が可能になる。

 物事を合理的な目で見れる人は自分も他人も強みも弱みも相対的因見れるだろう。

 上には上がある事、下には舌があることも知っている。

 あるいはあれはあいつに負けてもこれは自分が勝つ、あるいはこれは自分が優れていても別のところで人に勝てない面があるみたいに見ることが出来る。

 本当の上澄みは変な劣等感も過剰な自身もなく感情的にならずに客観的に自他のパラメータを見れる。

 ただそこまで賢くない、あるいはそこに至るまでに苦労やストレス、トラウマが強かった場合には変な劣等感を引きずるかもしれないし、裏返しかそうでないかに関わらず変な他者や外部へのマウント意識が育つかもしれない。

 実績や肩書が得られなかった場合もそうだ。

 中途半端な層が自己愛的になる。

 小中高大学そこそこの学力迄の学校だと自己愛性P傾向が少ないという意味では気持ちよい性格の人が多い。

 多分ダニング・クルーガー効果の研究デザインを行った人たちもこういうことを観察していたのかもしれない。

 ただ海外の社会階層の在り方や進学制度は日本とは違うが。

・究極の問題

 今後精神診療ではパーソナリティの問題がトピックになる。

 次に出る国際診断基準のICD-11で複雑性PTSDが登場しパーソナリティ障害の診断基準が劇的に変わる。

 日本では移民が増えるが途上国からの移民は多様なパーソナリティを持つ上に経済力が弱い国では子供の成育環境に問題が多いのでパーソナリティに問題を持つ移民も増えるだろう。

 今思えば半世紀前の私の子供時代はパーソナリティが多様、あるいは問題がある人が多かった。

 それ以前の第一次世界大戦や第二次世界大戦、世の中も貧しかった時代ではもっとすごい状態だっただろう。

 すさまじいほどに子供も大人もトラウマサバイバーだらけだったのだ。

 現代の目で昔を見てしまうと感覚が狂うし間違いを犯す。

 子供を持つと子供をどう育てたらいいかが最大の関心になる。

 この時期を指してライフコース論で有名なエリクソンは世話、生殖、停滞の時期と呼んだ。

 子供あるなしはともかく性格をどうしたら変えられるのかは人類の究極の問題の1つだ。

 人の親や教育者だとどういう生育環境でどう子育て、教育をすれば子供が将来成功するのかは最も知りたいに違いない。

成功するかどうかはともかくどういう性格に育つかは知りたくて仕方がない。

なのでもっと研究されてもよさそうだがこれだけ科学が進んだ世の中なのに未だに分かってないことが多そうだ。

 しかし精神科医なら子供をこう育てては駄目というのは分かる。

 ある種の精神疾患やパーソナリティ障害が生育環境によると知っているからだ。

 十分条件とは言えなくても必要条件と言えるものもある。

 などいいつつ精神科医でも子育て失敗は結構あるのだが。

・生育環境と性格

 生育環境、子育てとどういう性格になるかは人類の最大の関心ごとの1つではないだろうか。

 でもそれほど研究されていない。

 少なくとも精神科では。

 子育ては子供を心身共に健康に育つべきなので将来精神障害をきたすような育て方は予防のために研究されてしかるべきだが処々の事情で研究が困難だった。

 精神科は医学だから病気を扱う。

 精神の病気になるような生育環境や子育ての仕方の研究をしようとすると実は昔は反対があった。

 子育ての仕方が原因で精神病になった、みたいになると親や家族に影響する。

 昔は今よりも精神科疾患に対する偏見が強かった。

 遺伝性か、環境因性か、あわせて家族性か、そういうことをはっきりさせると血縁者の縁談にも影響する。

 結核でさえ家族の縁談に影響があった時代だ。

 まあ結核は感染性があるのでそれなりに合理性があったし今は治療法があるので過去の話として笑い話に出来る。

 精神障害はリアルタイムの問題だ。

 子育てにはどの親でも必死だ。

 ベイトソンのダブルバインド理論というのがあって矛盾にさらされると統合失調の際へ津率が高くなるという研究があった。

 更に発展させて矛盾にさらせれる環境にある人、特に子供は統合失調症に発症しやすくなるという研究をしようとしたら家族会に反対されたようだ。

 日本の誇る精神医学者の木村敏京大名誉教授が科学的研究は政治と切り離すべきだと嘆いておられた。

 同じ木村先生と笠原先生の研究で精神病理学レベルならばうつ病の分類と病前性格論というのがある。

 それに先立ってドイツのテレンバッハのメランコリー親和型や九大の下田先生の執着気質という優れた病前性格論があった。

 三大精神病で言うと転換も特に側頭葉転換では粘着気質や爆発気質というのがある。

 その他の疾患でも性格論はある。

 神経症圏は先にふれたがガロの骨相学やマニャンの変質学説というようなものまである種の性格論と見做せる。

 前者は脳の体部位局在につながったし、変質学説は現在の新しい統合失調症間につながる面がある。

 精神病理学の欠点は実証、統計学的研究がないことだ。

 ICD-11という新しく出る国際疾病分類ではパーソナリティ障害が構造化される。

 構造化面接で症状のスコアもつける研究が盛んになるだろう。

 それとは別に性格や生育環境のような研究をしようとすると時間もサンプル数も必要になる。

 費用や労力もかかる。

 またその研究が功利的、プラグマティズム的、経済的にベネフィットが大きいかが研究で問われることが多い時代だ。

 データサイエンス、ビッグデータ、インターネット、AIなどが従来の研究手法を刷新するかもしれないので楽しみではある。

・精神医学と性格

 研究しているかどうかにかかわらず精神医学や精神疾患、生育環境や育ち方はパーソナリティと強力な関係がある。

 そもそも精神障害は様々なパーソナリティの変化を起こす。

 またパーソナリティにより何かの精神疾患にかかり易かったりかかりにくかったりする。

 診断基準に広い意味でのパーソナリティが含まれるものもあるし、それとは別に大項目でパーソナリティ障害という疾患カテゴリーがある。

 ちょっと風向きが変わってきたかなと思われるのはICD-11という遅延しているが近々日本でも使われるはずのWHOの新しい疾病分類では複雑性PTSDというものが登場する。

 現在使われているPTSDというのは単発性のストレス、トラウマに対する心身の反応だ。

 一回だけのレイプや死にそうな体験などに対する反応だ。

 これの診断基準にも性格変化がある。

 PTSDの診断のための症状クラスターは①侵入症状、②認知や感情の陰性変化、③解離症状、④回避症状、⑤覚醒症状、⑥離人感、⑦現実感喪失、⑧その他、などがある。

 ちなみに①~⑦は相互に背反ではない。

 重なりもあるが大雑把にはそんな感じだ。

 この中にはパーソナリティと言ってよい物がある。

 単純、すなわち一回だけのトラウマでもこうなる。

 幼少期に持続的に逆境体験、レイプされ続けたり死にそうな体験、苛烈な身体的虐待など繰り返されれば単純性PTSDよりややこしい病態になる。

・パーソナリティ障害が変わりそう

 これからパーソナリティについての精神科の国際診断基準が変わる。

 今まではICD-10というWHOの国際疾患分類が使われていたが、たしか30年ぶりくらいの改訂になる。

 日本語への翻訳がまだなので日本の診療では使われていない。

 国際診断基準以外ではアメリカの診断基準が重要だ。

 アメリカの診断基準はDSMでDSM5が2014年頃から使われている。

 ICDの精神科診断とDSMは昔は違ったがどんどん同じようになっているししようとしている。

 そもそも研究はDSMを使って行われるのでデータやエビデンスはDSMベースになる。

 ICDが科学的であろうと思えばDSMによる研究結果を使うので似てい来るのは当たり前だ。

 ただ両者は改定の時期が違うので違いが出る。

 今回ICD-11がでてDSM5と大きく変わりそうなのはパーソナリティ障害の部分だ。

・診断を作ってみたが使われない

 パーソナリティ障害は一応診断を作ってみたものの一部を除いて診断で使われないし研究もされていない。

 そもそも性格分類というのは精神科に関わらず昔から研究されていると思うが決定打はない。

 精神医学ではまず多元精神医学のクレッチーマーの性格論が有名だ。

 内胚葉気質、外胚葉気質、中胚葉気質にわけてそれぞれが躁うつ病気質、統合失調症気質、てんかん気質に対応する。

 臨床精神病理学の著者のクルト・シュナイダーの精神病質分類も有名だ。

 臨床精神病理学は現代のDSMも含めた診断体系のもとになっている。

精神病質はシュナイダーは10の型を上げている。

 当然それ以外もあってもよい。

 性格論はキレイに分けきれずその他や混合性というのがたいていつく。

 シュナイダーの10型は以下の通りだ。

①意志薄弱者
②発揚者
③爆発者
④自己顕示者
⑤人間性欠落者
⑥狂信者
⑦情緒易変者
⑧自信過小者
⑨抑鬱者
⑩無気力者

 精神科は医療で広く言えば保健福祉の一領域なので障害を扱う。

 いろんな性格はあるがその人が生きていくうえで主観的に、あるいは周りに問題を起こしそうな場合を障害と言って障害になる場合を扱う。

 それとは別にある種の性格はある種の疾患になりやすいリスクになる。

 病前性格という。

 相当にリスクが高い性格傾向もあり、そういうのはあらかじめ捕捉しといて発症予防するのがベターだから正確研究は重要だ。

 実際に統合失調症型パーソナリティ障害という障害は統合失調症になりやすいことが分かったので現在はパーソナリティ障害としての扱いだけでなく統合失調症をはじめとする精神病性疾患の分類項目にものせられている。

・現行の分類パーソナリティ障害のカテゴリー分類

 現在のパーソナリティ障害は以下のとおり。

 DSMとICDを混ぜてのせる。

 どの疾患もそうであるがまずはだいたい序論や総論みたいなのがあるからそれが前提となる。

その序論や総論みたいなのでパーソナリティ障害とは何なのかを規定して細かい分類を行う。

例えば変な話だがパーソナリティの特徴的変化はいろんな疾患で見られる。

そういう特定の精神疾患に付随したパーソナリティ変化は除外しないと話がまとまらないなどの理由がある。

 細かい分類は

クラスターA
妄想性/猜疑性/パラノイド型パーソナリティ障害
統合失調症系パーソナリティ障害
統合失調症型パーソナリティ障害

クラスターB
演技性パーソナリティ障害
自己愛性パーソナリティ障害
境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害
反社会性パーソナリティ障害/非社会性パーソナリティ障害

クラスターC
依存性パーソナリティ障害
回避性パーソナリティ障害
強迫性パーソナリティ障害

となる。

 これらはネームドで名前が与えられている。

 物事にはその他がある。

 本来カテゴリーで分けにくそうなものを無理にカテゴリーで分けようとすると例外がたくさん出てくる。

 むしろその他や例外の方が多いことも多いだろう。

 例えばDSMでは上記のようなネーム付きのパーソナリティ障害に続いて「他のパーソナリティ障害というのが続く。

・他の医学的疾患によるパーソナリティ変化
・他の特定されるパーソナリティ障害
・特定不能のパーソナリティ障害

というのがある。

ICDではネームドを特定のパーソナリティ障害としてこれに他の特定のパーソナリティ障害や特定不能のパーソナリティ障害をくっつけた後に、

「混合性および穂阿野パーソナリティ障害」という項目を設けている。

 これは

・混合性パーソナリティ障害
・問題を起こしやすいパーソナリティ変化

というのがある。

更にその後

「持続的パーソナリティ変化、脳損傷および脳疾患によらないもの」という項目を設けている。

これには

・破局的体験後の持続的パーソナリティ変化
・精神科的疾病後の持続的パーソナリティ変化
・他の持続的パーソナリティ変化
・特定不能のパーソナリティ変化

というのがある。

 物事は全般的にネームドに注目が集まりやすい。

 しかしいろんな物事がそうだと思うがその他や分類不能や混合性や何かの出来事による性格変化というのがとても多い。

 DSMが第3版から圧倒的に普及しだして以降、その他や分類不能が多すぎるのが問題になった。

 今でも問題な気がするが最近はあまり聞かない気がするのはなぜだろう。

 一部はやや科学的には不誠実に無理にネームドに押し込んでいる面があるのかもしれない。

 あるいは精神科公衆衛生がよくなって経過や病態が複雑な症例が減り全体的に精神疾患が軽症化、単純化してネームドに収まりやすくなったからかもしれない。

このパーソナリティの変化、あるいは生育環境などがパーソナリティに与える影響などに焦点を当てる。

・ディメンションの考え方

 パーソナリティというのはカテゴリーで分けるべきではないのではないかという考え方がある。

 人間には様々な側面がある。

 いろんな因子があり、そのいろんな因子ごとのパラメータの総計が性格を形作る。

 因子ごとにある程度の相関はあるかもしれない。

 色々な因子の相関や傾向、パターンがあれば多因子分析のクラスターのように多次元空間でまとまりをつくる。

それがカテゴライズできる性格として捉えられるのかもしれない。

しかし人間の性格を形作る因子間には多様であって単純にクラスターを作りまとめられるものではないかもしれない。

とするとパラメータの生データをそのままプロファイルとして見るのがいいのかもしれない。

誰かの性格を単純にカテゴライズするのではなくプロファイリングしてみる方がいいかもしれない。

多様な性格があるとすれば多次元空間上のドットには集積しがちな領域はあるかもしれず、そういうものには名前を関するような性格を与えてもよいかもしれない。

他方で2つのクラスターが連続体、スペクトラムをなしていて2つに分けるのが難しいこともありうる。

そもそもクラスター訳などできない程人間は多様性に満ちているかもしれない。

カテゴリーで人間を見るのは先入観や偏見になる。

差別だから悪いというわけではなく認知上の歪みになる。

大方人間は主観的な感覚を使っている場面が多い。

 精神医学ではこれまでいろんな疾患でカテゴリー分類を使っていたが最近はスペクトラム分類を使うようになっている。

 かつパーソナリティ障害ではICD-11からディメンション分類を使うようになる。

 ディメンションを使うということは分類というとおかしいかもしれない。

 何年か前にICD-11の素案が出て雑誌で特集したり学会で講演が行われたりして勉強したが、翻訳が出て日本で運用が始まってからまとめて勉強しようと思っているので詳細はしらない。

 DSM5でもパーソナリティ分類をディメンション分類にしようとしたがその際には時期尚早として見送られたが今回は採用されたようだ。

 この点はICD-11の大きな目玉だ。

 結局世の中は全てが多変量解析みたいなことが出来ればいいのだが人間の脳や知力のキャパシティでは限界があった。

 共産主義計画経済だって人間の脳や知力のキャパシティが十分大きければ成功の可能性はあった。

 イスラエルのキブツのような共産主義的共同体ではそれなりに運営自体はうまくいっていたようだ。

 ただし若い人が流出してしまう傾向があったようだ。

 今回の新冷戦が特殊なのはテクノロジーの進歩だと思う。

 AIなどの進歩が追い付けば完全監視、統制、計画社会を実現できるのではないか、という想像ができる。

 というわけで農業や手作業への注目が盛んだ。

 人間の認知は省略的だ。

 カテゴリーで認識した方が多分エネルギー消費が少ない。

 脳の容量だけで言えばネアンデルタール人や10年前の我々の御先祖様の方が大きかったし、自閉スペクトラム症では脳の体積が大きいことが知られている。

 要素をカテゴライズせず、還元せず、総合せずありのままで捉えれば素のデータでもあり情報の欠損もないのであるがエネルギー的に効率が悪いので単純化、簡略化して分かった気になろうとする傾向が人間にはある、というのが現代哲学の見方でもある。

 何はともあれICDではパーソナリティ障害をディメンション的に扱う。

 うまくいけば他の疾患領域でもそうなるのではないだろうか。

 ただしネームドで残されるパーソナリティ障害もあるようだ。

 情緒不安定性/境界性パーソナリティ障害である。

・精神病理学は認知構造を研究する

 20世紀中葉から後半でもっとも研究された精神障害はおそらく境界性パーソナリティ障害(BPD)だ。

 最初は1950年代の後半ごろ統合失調症の中核例ではない軽症の境界例の研究から始まったが、1970年代ごろには現在のBPD概念が出来る。

 BPDはborderline personality disorderの略だ。

 この境界というのは神経症と精神病の境界という意味だ。

 昔は精神疾患の分類で精神病圏と神経症圏という分け方が使われた。

 これは今もICD-10では名残が残っている。

 F2は精神病圏の疾患でF4は神経症圏の疾患だ。

 DSMではこういう分け方はなくなっている。

 精神病理学とは精神障碍者の内面を理解するための学問だ。

 理解を言い換えれば説明可能や了解可能ということでもある。

 精神疾患をいかに説明し、了解するかを研究した。

 この説明と了解で精神疾患を理解するという方法論を作ったのがカール・ヤスパースで1900年頃だから100年以上の歴史がある。

 歴史があると言っても最近は流行らない学問だ。

 研究としては流行らないが精神科医が患者さんの内面を知るために勉強する学問としては非常に重要だ。

 また自閉スペクトラム症などの新しい疾患概念が出来た時にはやはり精神病理学が必要になる。

 精神病理学の癖として精神病圏を中心に研究する傾向があった。

 精神病圏の疾患は精神に構造的な問題をきたす。

 構造的問題とは認知構造や思考障害をきたす。

 適応障害のような軽傷でもあり普通の人でも患者さんの内面を理解できると考えられた精神障害は研究されない傾向があった。

 神経症に対してもそういう面がある。

 精神分析学や心理学も精神病理学と関係あるが心理士さんやカウンセラーはあまり精神病圏を扱わない。

 カウンセリングや心理療法、精神療法は精神病の患者の症状を悪化させることが多かった。

 精神分析学などでも精神病圏の病理分析は素晴らしいのだが積極的治療に生かせない。

 他方で精神病理学は病理が簡単な神経症圏を軽視する傾向があった。

 精神病理学の研究テーマは当初から「異常」と「正常」とは何かというものでそれをどう了解し、説明するかという線引きがひかれた。

 神経症圏は解離性障害のような認知構造が激変する者もあるが、普通の人でも時にそうなったり理解できたりするような症状が多い。

 あまり研究対象として食指が動かなかったのかもしれないし、研究しても評価されにくかったのかもしれない。

・境界性パーソナリティ障害

 精神医学は神経症も扱うが精神病を扱うのがアイデンティティだ。

 心療内科は精神病が弱いのが特徴だ。

 閉鎖病棟勤務や隔離、拘束、措置や医療保護入院などの経験があって精神保健指定医を取れば心療内科医でも精神科医と同じことが出来そうだがそうなると心療内科医ではなく精神科医としてのキャリアを選ぶことになる人が多そうだ。

 因みにクリニックで心療内科を標榜しているのはほとんどが純粋な心療内科医ではなく精神科医だ。

 敷居を低くし間口を広くして集患対策にするためである。

 新しいパーソナリティ障害の診断はディメンション化されネームドのパーソナリティ障害がなくなるのだが、情緒不安定性/境界性パーソナリティ障害だけは残されるようだ。

 理由はいくつかある。

 これは圧倒的に臨床で使われる。

 単に分類項目に記載はあるが使われず研究もされていないネームドのパーソナリティ障害が多い中このパーソナリティ障害だけは際立っている。

 このパーソナリティ障害は認知機能障害がある。

 しかも構造的だ。

 被害念慮や病識の欠如などの統合失調症と同じ思考障害がある。

 だから神経症圏/水準と精神病圏/水準の間という意味で「境界」という言葉が使われている。

 心理レベルや普通の人でもあるレベル、経験があるレベルではなく構造的な問題がある。

 境界性パーソナリティ構造という。

 精神科の歴史の中でも重要で20世紀の一時期は境界性が精神科の最大のトピックだった時期があった。

 臨床的に巨大な問題があった。

 カーンバーグやマスターソンなどの精神科医や精神分析学者へのリスペクトもあるだろう。

 これらの人々が境界性パーソナリティ障害の疾患概念と病理学の確立に大変な貢献をした。

・生育環境とパーソナリティ

 どういう育て方をすればこどもを成功させられるか、ちょっと違うがこどもをどういうパーソナリティになるかは不明な点が多い。

 特に子供を失敗させる子育て育児、不幸にするパーソナリティ障害にする生育環境についての研究は上に挙げた理由でやりにくい。

 現代社会では研究と言えば統計学的にエビデンスを出す研究が重視される。

 しかし統計学的でない研究であれば膨大な数の研究がある。

 また研究ではなく精神科医の個々人の臨床経験という意味では異論をはさむ余地もなく精神障害と生育環境が関係がある場合がある。

 例えば上の境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害と子供時代の愛着障害がそれだ。

 境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害の患者さんに子供時代の問題を聞けば隠すことなく、むしろ時に積極的に愛着の問題を話してくれる。

 だからざっくり言えば境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害は十分条件、愛着障害は必要条件の関係に両者は少なくともなる。

 だからいっぱしの精神科医ならば自分の子供に愛着問題が生じることを避ける。

 これは子供をほめて育てる近年の育児業界の流行に似ている。

・子供時代の逆境体験とパーソナリティ

 子供時代に不遇な環境にあった子供は大人になって精神的問題、更には精神疾患を持ちやすくなるという考え方が強い。

 子供の権利や人権問題があり政治的なバイアスがかかっているかもしれないことを考慮に入れても。

 大雑把に言うと逆境体験でもおおまかに2方向に分かれる。

 専門の先生ならもっと細かく分けるだろう。

 一つの方向性は愛着障害があると境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害になりやすい。

 ただネームドのパーソナリティ障害がただ一つ単独であるある意味診断学的にきれいな患者さんばかりではない。

 現実には複数のネームドのパーソナリティ障害を持つ、診断基準を満たすような患者さんは多い。

 実数はあまり意味がない。

 カテゴリー分類であってもパーソナリティ障害はやはりスペクトラムだ。

 疾患や病気という言葉を使っても精神科では厳密にはそういう言葉を使わずWHOの保健福祉分野で使われる障害構造論が使われる状況が長らくあった。

 障害構造論では障害とは自分が困るか周りが困るかで診断される。

 つまり相対的なものだし状況依存的なものだ。

 ICD-11では障害という言葉を症という言葉に変える流れがより強くなると思われる。

 ただ障害であれ症であれ英語の原文ではdisorderであるのは変わらない。

 これは精神分裂病を統合失調症と名称変更しても国際的にはschizophreniaであることは変わらないし、白痴を精神遅滞から知能障害/知的能力障害や知的発達障害、痴呆を認知症と言い換えても英語ではdementiaであるのと同じだ。

 最後はneurocognitive disorderやcognitive disorderという場合もあるかもしれないがそれは意味が広すぎる。

 差別や偏見を意識して言葉だけ変えてしまうのは別の意味でもなかなかいい方法だ。

 愛着障害でない子供時代の逆境には虐待のようなものがある。

 この場合も明らかに、といってしまうがパーソナリティに明らかに影響を与える。

 分かり易いのは解離性障害が発生しやすくなることで特に多重人格症/解離性同一性障害は特徴的に感じられるだろう。

 今後知られるようになりそうな複雑性PTSDや抑うつ的性格≒気分変調症も実はそういう面がある。

 昔で言う転換性障害や身体表現性障害は精神病理学的には解離の病理で括られる傾向があった。

 あるいは病理を問わない操作的診断基準のDSMのように特定の概念や病理でまとめようとせず独立なものと見做してばらばらにするかである。

 PTSDは単純性にせよ複雑性にせよ大雑把に言うと解離症状とパーソナリティ変化に分かれる。

PTSDの症状クラスターの①侵入症状、②認知や感情の陰性変化、③解離症状、④回避症状、⑤覚醒症状、⑥離人感、⑦現実感喪失、⑧その他、のうち、

①    ③⑤⑥⑦が解離症状、②④⑤がパーソナリティ変化とみられる。

⑤はどっちもかもしれない。

・精神科でわかっている事

 精神科医は性格形成上悪いことにはやや詳しい。

 ただどういう性格がいいとかどう育てればどういう好ましい性格になるとかは詳しくないと思う。

 精神科医は医者なので病気を扱う。

 精神の生理は実証科学的によくわかってないことが多いので、精神の生理額より精神の病理学の方が詳しい。

 とりあえずBPDの原因は愛着障害、解離性障害などの中でも重度なものは幼少時期の虐待などの逆境体験というコンセンサスは精神科臨床医の中ではあると思う。

 病院と言ってもいいと思う。

 ただし逆は言えない。

つまり愛着障害があれば必ずBPDになるのか、虐待があれば必ず解離性障害になるのかまでは分からない。

一応愛着障害の一つの形として反応性愛着障害や脱抑制性対人交流障害というものもある。

冷戦崩壊後、ルーマニアの「チャウシェスクの子供たち」というのが注目を集めた。

孤児院などで養育者が少ないような施設で育った子供たちやストレートチルドレンにある種の精神失調がみられる場合がある。

時に発達障害に似て鑑別が難しい場合がある。

愛着は愛情とは違う。

愛情たっぷりの養育者に恵まれた環境でも何らかの理由で愛着障害になる場合はある。

ダイアナのような上級貴族やビルクリントンのような英才教育を受けるような恵まれた環境にあった人さえ愛着障害になるのだ。

BPDは芸能人や接客商売に向いているという説があり必ずしも悪い事ばかりとは言えないかもしれない。

生物学や心理学の実験では鉄のワイヤーで作った母猿と毛布やぬいぐるみのようなもので作られた母猿に抱かれて育った赤ちゃん猿の研究があって前者は行動異常がみられるように育ったようだ。

大きく見ると世代論というものがあり長生きしていると同じ年齢でも世代によって性格傾向が違うことが分かる。

・発達理論との関係

 心理的発達の理論ではエリクソンのものとピアジェのものが有名だ。

 前者は精神力動を見て後者は思考発達を見ている。

 エリクソン理論では生育後すぐに赤ちゃんの精神発達の課題や問題は信頼、希望、不信というものだ。

 これが愛着と関係あると考えられている。

 精神分析学では母子関係を2社関係、父親のような社会性を持った存在が加わるのを3者関係という。

 前者は母子の愛着形成が大切というクライン派と中間学派の主要理論で後者はいわゆるエディプスコンプレックスと関係がある。

 これは生育後すぐの期間だけでなくその後も長期にわたり発達し続けるので子供、あるいは大人時代も含めた長い期間続く過程なのでどこかで強い愛着の問題があると精神的な問題を起こすことがある。

 この図式で言えば勤勉、適格意識、劣等感を感じ始めるのはエリクソンの図式では学童期からとされているが、ここの問題が長引き劣等感が潜在化した状態が自己愛性パーソナリティ障害ではないかということになる。

 中学受験すると学童期に競争を強いられる。

 そこでは承認欲求、自己顕示欲、願望充足不全、欲求不満、自己効力感、自己肯定感、劣等感、優越感が渦巻いたものになる。

 現代の日本の制度では私立の中高一貫の男子校や女子高出身者が高学歴を占める。

 昔の公立高校がエリート校だった時代は経済社会環境も違ったしまた違っていたかもしれない。

 そういう時代ではエリート層はそれはそれで自己愛性の形を作っていて庶民から嫌われていたのかもしれない。

 日本は内申点やAOよりはテスト一発勝負という受験制度が強い。

 だから中学受験が苛烈になる。

 思春期に受験のようなストレスは精神的に危険だ。

 15歳は高校受験18歳は大学受験、20歳や22歳では新卒就職となる。

 また幼稚園受験や小学校受験もある。

 エリクソンの時代や場所では検出できなかった自己愛の傷つき、劣等感、適格意識の問題が学童期以前にも起こるかもしれない。

 性格も発達も時代や場所などで異なる相対的なものである部分がある。

 統合失調症は100人100様だが気分障害は1通りしかないと確かビンスワンガーという学者が言っている。

 そこでうつ病の性格論や病前性格論は盛んだったが今では勉強になるが古い面がある。

 ある種の階層社会のエリートの失敗例は自己愛的になったのかもしれない。

 また嫉妬深い、上には媚びる、下には威張るというか人を人と見ず利用対象と見る自己愛性の特徴は実は日本人的、もっと言えば東アジア的ともいえる。

 儒教文化圏はこの傾向が強いのかもしれない。

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