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目のないキティと我が家の娘


 我が家には全く同じ5体のキティちゃん人形があります。義父が、毎年、保険屋さんからもらう人形を、娘にくれるのです。娘が2,3歳の頃から、毎年、一体ずつくれるので、デザインの違う物も含め、6体の人形が集まりました。
 小さい子供が遊ぶので、1年も経てば、かなり傷んできます。娘が2つ目の人形をもらう頃には、1つ目の人形は鼻が取れていました。(正確には鼻は取れたのではなくて、顔の中に埋まっていたのでした。)
 
 人形の鼻が取れてしまったところで、新しい、それも全く同じ人形をもらったので、古い人形とはサヨナラをして、新しい人形と交換するものとばかり思っていました。ところが、そうはならなかったのです。


新しい人形を受け取ると、娘はこう、宣言しました。


「2人目が来たから、この新しい子は妹ね。それで、この子はお姉ちゃん。お姉ちゃんは鼻がないから、『鼻なし』っていう名前にする。」


 こうして、我が家のキティちゃん人形は、姉妹になりました。そして、「鼻なし」は、「まじめで、しっかり者、料理上手のお姉さん」という性格を与えられ、今でも妹たちの料理を作り、甲斐甲斐しく、お世話をしています。
2人目にきた子は目が取れたので「目なし」、3人目は、「目あり」、4人目は「鼻あり」、5人目は、何だか手触りがフワフワに感じたので、「フワ」と名付けられました。
 

 鼻が無かったり、目が無かったり、一見すると欠点のように思えることも、娘にしてみれば、「愛すべき個性」の1つだったのです。
 その当時は、特に何も感じませんでした。それこそ、人形、どんどん増えてくなぁ、って思ってただけでした。

 でも、今になって思うのです。

 「欠点」を否定してしまうのでなく、「個性」として、受け入れる、それは、とても素敵な考え方だなぁ、と。

 それは、自分がメンタル疾患になったからかもしれません。原因不調の体調不良に悩まされたからかもしれません。
 それこそ、僕は、自分を、自分の心を、自分の体を否定し続けていたのだと思います。もちろん、体調を崩した事が、良いことである、とは思いませんが、そんな自分を、受け入れようとした事があっただろうか、と。

 メンタルが病みやすいことだって、体調を崩してしまったことも、それに、背が低いことも、ブヨブヨのお腹も、ほんの少し、後退しだした生え際も…。

 欠点ではあるのですが、自分の個性として、愛してやることができれば…。それは、素敵なことなんではないかなと…。

 もちろん、「治らなくて良いや」って、事では決してないのですが…。心の不調も、体の不調も、自分が一生懸命に出しているサインなのではないかと。自分が自分を心配して、寄り添ってくれているからこその、声なき声なのではないかな、と、最近、思うようになったのです。
 そんな、自分の声を否定し続けてしまっていたのではないかと思ったのです。
 
 もっと、自分の心の声に耳を傾けながら、自分の心に寄り添いながら、少しずつ、共に解決していけたらな、と。

 何だか、とりとめの無い、よく分からない文章になってしまいましたね…。
 

 最近、「鼻なし」は、大手術を受けました。そして、無事、顔の奥深くに埋まっていた、鼻を取り出すことに成功したのです。2度と鼻が顔の奥深くに埋まってしまうことのないよう、グルーガンで鼻を顔に貼り付ける、と言う、処置を施されたのでした。
 
 しばらくの間、「鼻なし」は、「鼻あり鼻なし」と、どこかの昆虫の学名のような呼び名で呼ばれていた事をご報告して、終わりたいと思います。

それでは、また。



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