【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第4話 中国 雲南省
2004年1月10日 旅立ちから、現在 7 日目
夕刻、北京から夜行列車に乗り上海へ向かった。
発車のベルが鳴ってゆっくりと列車は動き出し、やがて郊外へ出た。
私は寝台で横になりながら、窓の外のゆっくりと移りゆく景色をぼんやりと眺めていた。
遠くで羊飼いがたくさんの羊を引き連れて歩いている。
家路につく子供達がはしゃいでいる。
そんな光景が次々と現れては消える。
そして空一面を真っ赤に染めながらゆっくりと地平線に沈んでゆく夕陽。
空気が埃っぽいためかとても大きく見えた。
陽が完全に沈んだ後、夜空には満月が見えた。
この旅であと何回満月を見ることができるだろう。
そんなことを考えながら寝台でうとうととしていた。
途中の駅の公衆トイレで用を済ませた。
誰が名付けたか知らないが、中国の公衆トイレは旅人たちから「ニーハオトイレ」と呼ばれていた。
当時、中国の公衆トイレはなぜか扉も壁も無く、さらには便器すら無く、隣とつながった溝が掘ってあるだけのものも多かった。
用を足そうとその溝をまたいでしゃがみこむ。
隣にも同様に用を足す人が来る。壁が無いので目が合う。
そこでお互い苦笑いで「ニーハオ」というわけだ。
しかもどのトイレも必ずと言ってよいほど、なぜか的を外したブツがそこら中に散乱していたりして、旅人たちからはこの中国のニーハオトイレは「宇宙一不衛生な場所」として恐れられていた。
外国では様々な異文化に出会い、初めは驚くが大抵のことはすぐに慣れた。
だがこのニーハオトイレだけはどうしても慣れることは無かった。
近年、急激な経済成長により都市部のニーハオトイレは激減しているらしいが、田舎に行けばまだまだ昔ながらのニーハオトイレに出会うことはできるようで、ある意味ほほえましく思っている。
ただ私はもう二度と使用したくないが。
上海から長江を遡るように、南京、武漢、重慶、貴陽と中国内陸部を旅していった。
真冬の中国内陸部は海沿いの上海とは比べ物にならない程寒く、降る雪は一人旅の私を心身共に凍えさせた。
私は暖かい南を目指して、中国南部の雲南省へと急ぐことにした。
そして北京から旅を始めてから1ヵ月後、雲南省の省都、昆明にたどり着いた。
雲南省はベトナム、ラオス、ミャンマーの山岳地帯と国境を接しており、元々その土地に住んでいた少数民族が今もなお昔ながらの伝統を守りながら暮らしている。
そんな彼らの土地を巡るため、まず昆明の西にある大理という町に向かった。
大理はその名の通り大理石の産地であり語源にもなっている。
ここは白族という少数民族の町で、昔小さな国があったため、大理の旧市街は今でも当時の城壁で囲まれていた。
壁の東側には黄色一色に埋め尽くされた菜の花畑と澄んだ湖が広がり、西側には雪の残った山脈がそびえ立つ。そのコントラストがとても美しい町だった。
近くには温泉が湧いていて、真冬の旅で凍えた身体を癒すのには絶好の場所だった。
行きつけのおいしい安食堂も見つけた。
宿の人も親切で居心地が良かった。
この町で10日程のんびりした後、雲南省の更に奥にある麗江という町に向かった。
麗江はナシ族という少数民族の町だ。
この辺りまで来ると標高が2,000mを超えて山が多くなってくる。
古い木造民家が密集しているこの町の旧市街は世界文化遺産にも登録されていた。
昔ながらの町並みの中には小川が張り巡らされ、広場では老人が輪になり音楽に合わせて踊っていた。
また、この町ではトンパ文字という昔の象形文字が現在でも使われており、世界で唯一の「生きた象形文字」と言われていた。
私は更に雲南省の奥地を目指した。
麗江から北上すると香格里拉(シャングリラ)という村がある。
ここはチベット文化圏に属している場所だ。
標高が3,000mを超えるこの地で初めて高山病にかかった。
高山病は、高地での低酸素状態において数時間で発症し、頭痛、吐気、めまいなどの症状がある。
一般的には数日間で高地順応して症状は回復するが、重症の場合は死に至ることもある。
幸い2、3日で私の症状は回復したが、高地の環境の厳しさや、そこで生きる人たちのたくましさを身を持って体験することができた。
雲南省を1ヵ月程巡り、再び昆明に戻る頃には季節は冬から春に移り変わろうとしていた。
続く ↓