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ピンポンダッシュ狂想曲

「ピンポンダッシュが流行り、ご近所から苦情が届いています。ご家庭でも注意を促してください」との内容が、1年生の学年便りに書かれていた。「1年生でもピンポンダッシュを知っている子がいるのかぁ」と、対岸の火事だと思いながらお便りを眺めていると、弟が口を開いた。

「実はね、いつも一緒に帰ってる友だちが何度もピンポンダッシュをしていて、僕ともう一人の友だちで、そのことを先生に話に行ったんだよ」

「え!?そうなの!?」

毎日一緒に帰っているし、ピンポンダッシュの様子も見ているだろうに。弟はやっていないなんて、そんな虫がいい話があるだろうか。

弟に尋ねると、「僕はやってない」という。ほんとうかいな。子どもの話は鵜呑みにしないことにしているので、すぐに担任に電話を入れた。

担任と弟の話は一致し、お咎めはなかった。以前から、ピンポンダッシュをしていた友だちの名は上がっていたそうで、話してくれたことへ感謝の言葉をもらって電話を置いた。

本当にこれで終わり?

「ピンポンダッシュをしてはいけない」と、レクチャーした覚えはないし、そもそも、ピンポンダッシュという言葉さえ知らなかったであろう。そんな1年生が、こんな優等生な対応で終われるわけがなくない?

疑心暗鬼でもやもやが止まらなくなったが、何かあればまた連絡が入るだろうと切り替えて、公園遊びに向かうことにした。

公園に到着し、しばらくしたところで携帯が鳴った。やっぱり来たかと腹を括って携帯を見たら、ピンポンダッシュをしていた友だちの親からだった。

以前からの知り合いなので、直接話せるのは都合が良い、と思った私は愚かだった。冷静さを欠いた彼女は、自分の息子が一方的に悪役として学校に認知されていることが、不服である旨を声高に話し始めた。

気持ちはわかる。いつも一緒に帰っている3人のうち、1人だけやっていたなんて考えづらい。しかも彼女の息子は、学校では先生が怖くて言えなかったけど、弟ともう一人の友だちもやったことがあると証言しているという。

再度、弟に聞いても「やっていない」というので、そのままを伝えたが、話は食い違ったままだ。他にもさまざま引っかかっているというから、とりあえず今日はここまでにしようと電話を切った。

何かあれば、学校から連絡があるだろう。翌日、もやもやは晴れないままに、弟を学校へ送り出した。

その日は最終下校時刻を意識して、首を長くして帰りを待っていたが、案の定、弟はなかなか帰ってこなかった。

こりゃ、何かあったな。あいつやってたな。なんで素直に言わないんだよ。夕飯を仕込みながらため息の連続。でもこれでスッキリするか。皆に怒られて、二度としないよう告げるのみだ。

説教されて、授業が1時間長い兄と一緒に帰ってくるかと思っていたが、とうとう兄が先に帰ってきてしまった。

説教中に申し訳ないと思いながら学校に電話をすると、「担任が指導中なので終わったら連絡します」と、他の先生からの回答。結局、弟は2時間近く残り、「先ほど学校を出ました」と、担任から連絡が入った。

2か月前、弟も、もう一人の友だちと一緒にピンポンダッシュをやってしまったとのことだった。いつもピンポンダッシュをしている子に「やらないと蹴る」と言われ、抵抗したもう一人の友だちは蹴られてしまったらしい。

彼は渋々ピンポンを押し、それを見た弟は、蹴られるのが嫌で抵抗もせず押したとのことだった。

この事実が本当なのか、担任が3人の話を聞き取りながら確認していたがために、2時間近くも残っていたというわけである。

丁寧な対応だとは思うが、1年生の1学期も終わっていない段階で、2か月も前の話を正確に供述できるのだろうか、という疑問が頭にもたげてしまった。

3人いれば話も噛み合ってくるのだろうけど、担任が詳細に共有してくれた「何月のいつ頃、誰がどうで、どうした」という1年生の取り調べ内容が、事件のすべての論拠になっていることに、少々行き過ぎ感を覚える。

その結果、確実なる首謀者と認定されてしまった友だちが、気の毒にも思えてきた。いつもは仲が良いので、蹴りもじゃれあいの延長だったかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。そこを1年生の2か月前の記憶から事実確認するのは、無理があるような気がしてしまう。

前日に電話で話した友だちの親は、その後も付き合いが続いているが、この件については話さなくなってしまった。事実の整合性や、学校の対応などについて納得しきれない部分があるようだ。それもそれで、もやもやした。

もはや、事実がどうだ、誰が一番悪いのか、なんてことはどうでもいいのだ。今回の失敗から子どもが何を学ぶかが大事で、「ピンポンダッシュとは何か」「なぜダメなのか」という社会のマナーを学ばせるのが先決である。

むしろ今で良かった、学ぶチャンスをもらった、とさえ思うくらいで、皆で失敗を共有しながら成長を見守ろうと、言い合いたいだけなのにな。

もう一人の友だちの親とも交流があるので、この日は連絡を入れた。すると、「泣いて怒り散らして、感情のままにピンポンしたお宅に謝りに行ったらとても良い方で、さらに涙が止まらなくなった」との返信が来た。

ピンポンしたお宅を忘れていた弟の無自覚さが恥ずかしくなると同時に、もやもやしながらも、割と冷静に事を見ている自分に不安を感じ始め、もやもやが更に増大していく感じがした。

弟にはしっかり言い聞かせたが、感情的に怒ることはしなかった。事の重大さは理解できたのではないかと踏んだからだ。二度があってはならないが、万が一に二度目があれば、そのときはルールをわかって破るわけだから、首根っこつかんでガツンと怒るだろう。

今回の失敗は、恐怖ではなく、次に失敗しないためにはどうすれば良いかを教える機会だと思ったから、私は冷静に対応した。だが、それが今後の行動の抑止力にならなかったらどうしよう。私のしつけが甘かったらどうしよう。考えれば考えるほどに、不安が襲ってきた。自分の中の倫理観や正義感が問われている気がした。

ここ2週間ほど、ずっともやもやしていた。いろいろと頭をこねくり回しても、パキッと明確な答えに辿り着けなくて、何が正解だったのか未だわからない、というのが正直なところである。

その間にも、子どもの生活は通常運転に戻り、3人は毎日仲良く一緒に帰ってくる。子どもの一日には、大人の何倍もの成長があるのだろう。彼らはどんどこ前へ進んでいくので、私も思い悩むのはこれくらいにしようと思う。

ご近所へのせめてもの罪滅ぼしとして、今年担当している地域連携関連のPTA活動は、しっかり取り組ませていただきたいと思っております。

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