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Next Lounge~私の鼓動は、貴方だけの為に打っている~第5話 「蓋世」

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

主題歌:イメージソング『Perfect』by P!NK

https://www.youtube.com/watch?v=vj2Xwnnk6-A

『主な登場人物』

原澤 徹:グリフグループ会長。

北条 舞:ロンドン・ユナイテッド FC 総務部 エージェント課 チーフ テクニカルディレクター。

エーリッヒ・ラルフマン:サッカーワールドカップ優勝ドイツチームコーチ。

アリカ・ラルフマン:エーリッヒ・ラルフマンの一人娘。YouTuber。元ドイツ陸上界の至宝。

ラドワード・グリフ:グリフグループ前会長。故人。

ニック・マクダウェル:アリカの幼馴染。ナイジェリア難民。

☆ジャケット:ラルフマン邸

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

第5話 「蓋世」

「ふぅ、やっと着いたわね。」
 ベルリンから南東へ約100kmほど、電車で約1時間の場所にドイツの少数民族ソルブ人が暮らす町、スラブの森"シュプレーヴァルト"がある。自然が生み出す独特な雰囲気で、ゆるやかな時間が流れるこの場所は、ドイツ人たちの癒しスポットにもなっている。ユネスコ生物圏保護区にもなっている美しい森林の中をハイキングしたり、カヌーやボートをレンタルして、森の中の水路を巡ったり…自然が好きな方にお勧めのスポットだ。このエリアはピクルスの産地としても有名なため訪れた際は、是非美味しいピクルスを味わって欲しいと思う。
 駅から歩いて20分程経った場所に、ラルフマン邸がある。12月の冬景色を堪能した舞はコートの襟を直し深々と深呼吸をした。彼は亡き妻の健康を考慮し、ここに引っ越したとのことだった。なるほど、闘病生活を送る奥様のためにとった行動が優しさに満ち溢れたものであることを彼女は知った。林道を抜けた先に、アイボリーの木像二階建て邸宅、ラルフマン邸に辿り着いた。彼女はゆっくりと玄関前に来ると周囲に視線を走らせた。
"カコーン!カラン!!"
 家の裏側から薪割りらしい音がするのを確認した彼女は、ゆっくりと音のする方へ近づいて行った。
"カコーン!カラン!!"
 辿り着いた彼女の視線の先に、丸坊主と言える程に短く刈った髪をした男性が薪割りをしている。防寒着を着た後ろ姿はまるで熊のようだ。すると、視線を感じたのか彼は斧を木株に突き刺し身体を起こして舞を見た。
「すみません、突然。音がしたもので・・」
「いえ・・」
 舞はバッグの肩紐を掛け直しながら歩み寄った。
「エーリッヒさんですね?お忙しいところ、失礼致します。ロンドン・ユナイテッドFCの北条 舞と申します。」
 舞は丁寧に深々とお辞儀をした。エーリッヒは、微笑むと彼女に向き直った。
「いえ、遠くから御足労掛けましたね。」
「舞さん!」
 二階建ての窓が開き、そこからアリカが顔を見せた。相変わらず美しい顔と見事な金髪が風でたなびいた。
「こんにちわ、アリカ。」
「アリカ、舞さんをリビングへ案内してあげてくれ。」
「ハーイ♪舞さん、玄関の方にいらして下さいね。」
「分かったわ。」
 アリカが窓を閉めて部屋を駆け出すのが聴こえた。
"カコーン!カラン!!"
 再びエーリッヒ氏が薪割りを始めた。
「エーリッヒさん。」
「何です?」
「素晴らしい身体をしてますね。」
「えっ?ああ、ありがとう、薪割りのお陰ですよ。」
「貴方は、引退したとはいえ日々の努力を辞める人ではないのでしょうね。」
 エーリッヒは、一瞬"ぴくり"とすると身を起こし舞を見た。
「貴女は何か誤解をされてるようだ。私はただのサッカー好きなオヤジですよ。」
「エーリッヒさんは、本物のピクルスをご存知ですよね?」
「勿論・・ピクルスなら私も栽培しているよ。」
「でしたら、その自慢のピクルスを"本物ではない"と言われたら?」
「・・・」
「貴方が"本物のサッカー監督にはなれない!"と言われたら、貴方のお嬢様は激怒するでしょうね、何故なら"本物を間近で観てる"んですもの。」
 エーリッヒが斧を持ったまま立ち尽くして舞を見たのに対し、彼女はそれに微笑みで返した。
「なるほど、よく分かりました。」
「分かってもらえましたか?」
 エーリッヒは軽く左の眉根を動かすと、再び舞を見据えた。
(この人はどこまで私を読んでいるのか?)
 自分を「チームの監督として招待したい。」と電話で聞いた。ただ覇気もなく断ることを伝える予定だったのだが「先に娘アリカに逢いたい。」と言われて断れなくなっていた。愛する娘が母の闘病生活のために走ることを諦めたこと、はたまた進学を諦めたことで就職にまで希望を持てなくさせてしまったこと等を親会社が大手製薬会社であるという一縷の望みを感じこの女性に合わせたことを彼女は読んでいるのだろうか、と。
「では、玄関の方へどうぞ。シャワーを浴びてきますので、暫く時間を下さい。」
 その場にいたたまれなくなり彼は背を向けたが、彼女は気付いているのだろうか?最早、彼自身が敗けを認めていることに。軽く頭を掻き苦笑いを浮かべ家に入って行った。舞は、再び切り株に刺さった斧を握ってみた。
「凄いわね・・」
 持っていた紙袋を置き、両手で引き抜こうとしてみたがビクともしない。彼女の頰に自然と笑みが溢れる。
「間違いではなかったみたいね。」
 玄関に回った舞をアリカが出迎えた、と言うより抱き着いてきた。
「舞さーん!」
「きゃっ!あ、アリカ・・」
「一昨日はご馳走さまでした!ねぇ、マフィンを焼いたの!是非食べてみて。」
「ホント?是非、頂くわ。」
 舞がコートを脱ぐとアリカが待っていたかのようにそれを受け取り玄関の壁に掛け先導してリビングに入って行った。20畳はあるだろうか、奥様が居なくなった家なのに整然と物が並べられ埃は見当たらなかった。
「父も私も結構キレイ好きなの。」
 アリカは、舞の表情を見て気付いたのか説明してくれた。彼女は手を後ろに回しまるで少女の様にはしゃいでいる。木製棚の上に並べられた写真には、2010年ワールドカップ優勝時のものや、家族で幸せそうにしているもの、アリカの幼いものまであった。壁には辺り一面、アリカが獲得した陸上競技のメダル、木製棚の中には、数々のトロフィーもあった。
「ママ、綺麗でしょ!自慢なのよ、父とアタシの。」
「ホント・・素敵ね。」
 確かにアリカの母は美しかった。髪は見事にウェイブがかった素敵なブロンドで端整な顔をしている。しかし、舞は写真に写っているアリカの美しさに目を惹かれた。やはり、彼女の美しさは尋常ではない。今まで世に出ていないことが信じられないとさえ思える。それに”ドイツ陸上界の至宝”と呼ばれていた事実を目の当たりにし、出会えたことにさえ感謝した。彼女は紙袋から青い花束を取り出してアリカへと差し出した。
「アリカ、お母様にこれを。」
「わぁ、ヤグルマギク!早速持って来てくれたのね。ありがとう、舞さん。」
 アリカは舞からヤグルマギクの花束を受け取るとキッチンへと消えていった。この見事な青色の花はヨーロッパ原産のキク科の花で、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位した際、帝室の象徴に採用したことから『皇帝の花』として国花となったそうだ。
 舞は辺りを見回し大きなテレビの横にある棚に整然と並べられたファイルに目を奪われた。
「アリカ、この沢山のファイルは?」
「あ、それね・・見てみますか?どうぞ。」
 アリカは花瓶に花を生けてリビングのテーブルに持ってきた。舞はゆっくりと棚に近付き一冊のファイルを取り出した。ファイルの表紙を見ると、"No.25"という文字が書いてあるのを確認してから中を開いてみた。
「・・凄い。」
 中には数々のサッカーにおける試合の詳細なデーターが事細やかに書いてある。舞が目を見張ったのは失点シーンに対する解説で何故DFが誤った動き、ポジションをとったのかについて書かれていた。それに、チームコンセプトの対比、相関関係についても記していて、独自解説が箇条書きで纏められていた。
「お父様・・かなりの理論派なのね。」
「そう!凄いんですよ。試合チェック中のパパはとても近づけないわ。」
「アリカ・・お父様の格言を聞いたことなんてあるのかしら?」
「格言、ですか?」
「そう・・」
 アリカは顎に手を当て考えている、舞は収納されているファイルを確認しながら手元のファイルを元の場所にしまった。
「"目的のない努力は無駄な努力"かな。」
 いつの間にかシャワーを浴びて着替えてきたエーリッヒがリビングの入り口に立っていた。
「あ、そうそう!よくパパに言われたもんね。」
「なるほど・・エーリッヒさん、素晴らしい分析資料ですね。」
「そうですか。」
「でも、残念だわ。」
「残念?何がです?」
「折角の資料を活かすべく目的を吟味し過ぎて、時機を逸しているように思えたので。」
 舞は前屈みの姿勢から身体を起こすと、左側の髪を右手でかき揚げエーリッヒを見つめた。彼はテーブルの上に置いてある銀縁の眼鏡を掛けると舞に微笑んでみせた。
「どうぞこちらへ。ヤグルマギクか・・妻が好きでした。」
エーリッヒは考え深気に花を見つめ、舞にテーブルの椅子を勧めてきた。
「エーリッヒさん、御自宅に招待頂きまして誠にありがとうございます。花のこと、アリカさんから伺っていましたから。それと宜しければ、こちらも。」
「これは?」
「フランス料理の巨匠、アラン・デュカスが手がけるチョコレート・ショップが、ロンドンにオープンしたのでお持ち致しました。お口に合うと嬉しいのですが。」
「ほう!」
「Super!(最高!)食べたい!!舞さん、センス良いなぁ〜〜。」
「そう?ありがとう。」
 アリカは、舞の側に来ると抱き着いて来た。舞としても彼女の素の喜び方は嬉しい限りだ。
「では、有り難く頂戴します。アリカ、彼女に料理をお出ししてくれ。」
「はい。舞さん、座って!」
「失礼します。」
 エーリッヒと舞が対座し、アリカの座るであろうエーリッヒの左隣には食器が並べてあった。テーブルの中央には"美味しく召し上がれ"と刺繍された青いリボンが結んである。
「早速ですが舞さん、アリカを御社ロンドン・ユナイテッドFCに就職させて貰えるというのは確かですか?」
「はい。昨日、了承を得ております。」
「・・そうですか。」
「ね、パパ。言った通りでしょ!」
 アリカは、蒸し上がったばかりのシュパーゲル(白アスパラガス)とじゃがいも、ハムを添えた1皿を持って来た。エーリッヒは、眼鏡のフレームを右手の親指と人差し指で摘んで持ち上げる。
「うわぁ〜!良い香りねアリカ、凄く美味しそう。」
「本当?嬉しい!舞さんの口に合うと良いけど。」
「でも、まだ旬には早過ぎない?」
「うん。でも、ドイツと言ったらこれだもの。舞さんに是非、食べて貰いたくて。ねぇ、オランデーズソースか溶かしバターをかけて食べてみて。」
 アリカは、そう言うと舞に小さなお盆に乗った2つの小皿を渡してきた。
「そう?ありがとう、貴女のお勧めは?」
「アタシ?へへ、やっぱり溶かしバターかな。美味しいわよぉ〜。」
「舞さん、娘には何を期待しているのですか?」
「彼女には、広報課に行ってもらおうと思っています・・うわぁ、本当に美味しい!」
「でしょ、舞さん。はい、パパ。」
「ありがとう。」
 アリカは、結露が付いたワイングラスをエーリッヒと舞に、更に氷とワインが入ったバケツをエーリッヒに持ってきた。エーリッヒは、ワインを取り出しタオルで水滴を拭き取りコルク栓を開けた。
「舞さん、シュパーゲルと言えばゲオルグ・ブロイヤーの"ソヴァージュ リンスリーケン トロッケン"を勧めます、是非飲んでみて欲しい。」
 "コ、コ、コ、コ・・"と注がれる音が舞の耳を心地良くする。
「失礼します。」
 彼女は注がれたグラスを右手の親指と人差し指で持ち上げると斜め下から照明に向けてグラスを見上げた。
「白ワインですか・・」
「ゲオルグ・ブロイヤーの最大の持ち味はなんと言ってもリースリング種を100%使用した力強い辛口ワインです。ソヴァージュは、 グレープフルーツやメロンのような魅惑的で若々しい味わいが特徴でしてね、鮮烈な酸と豊富なミネラルは口の中をさっぱりさせてくれますよ。」
 舞はグラスを少し傾けながらそのワインが持つ色合い、輝きや濃淡を確認した後で静かに香りを味わって、ワイングラスを反時計回りに2、3回静かに回してからグラスの内側を確認しつつ香りを味わった。
「ふふ、かなり自己主張の強いワインなんですね。芯が一本通っているというか・・」
 やがて彼女は舌をすべて包みこめるくらいを口に含み舌を使って口の中で転がしてから飲み込むと、鼻から息を出してワインの後味を楽しんだ。
「舞さんは随分とワインにお詳しそうだ。」
「そんなこと・・ないです。」
 舞は恥ずかしそうに耳朶を朱に染めて恥じらった。彼女がワインに詳しくなったのには理由があった。前に付き合っていた男性がワイン通であり、その彼に仕込まれたものだ。彼に喜んでもらおうと彼女は必死にワインの嗜み方を学んだものだ。
「ところで舞さん、娘を広報課に?ですか。」
「ええ、圧倒的なビジュアル、音楽的なセンスを活かすのに広報課が的確かと。それと・・」
「それと?」
「大好きな陸上を続けて欲しい、と想っています。」
「ほら、パパ!アタシ、また走れるのよ。」
 両手を胸に当てアリカは飛び跳ねて喜んでいるのに対しエーリッヒは、表情を変えずに舞を見据えている。
「でもアリカ、走るからにはドイツ代表になってオリンピックで金メダルを狙わないとね。」
「え・・えーー!?な、何を言ってるの舞さん・・そんな・・」
「あら、貴女のお父様には、うちのチームでプレミアリーグナンバーワンになって頂いて、CL制覇もしてもらうのよ。貴女は走るだけなの?目標も無しで走るつもり?」
「舞さん・・」
「ロンドン・ユナイテッドFCはサッカーチームだ。娘が走るには親会社であるグリフ製薬会社の陸上部に所属することが必要となると思うのですが?」
「ええ、その通りです。」
「やはり、グリフ製薬会社さんでは厳しいと?」
「就職が、ですか?」
「ええ。」
「ふふ、お父様は心配ですものね、大切な娘さんが。」
 舞は背もたれに寄り掛かり微笑んで相槌をうったのだが、エーリッヒは今までと異なりバツの悪そうな顔をすると頭をかいて項垂れた。
「お父様は元ドイツサッカーチームの名コーチですもの、自ずと会社は決まってきます。」
「で、でも舞さん、私・・」
「アリカ、それが社会というものよ。周りは貴女にそういったレッテルを貼りたがるわ。"自分は自分"なんて子供の言うことなのよ。」
 舞の叱咤に対し今度はアリカが項垂れた。本人もよく分かっていることなのだ。決して逃げられないことなのだから。
「アリカ、聞いて欲しいの。貴女には堂々として欲しい。それは、良いことばかりではないから。時に罵声を受けることもあるわ。でもね、そんなことに負けないで欲しいの。実績で反論すればいのよ、私はいつでも貴女の力になるわ。」
「舞さん・・」
 アリカは、顔を手で覆って泣いていた。初めて諭された喜び、心から頼れる人生の先輩に出逢えたことを噛み締め、彼女は身体に力が漲るのが分かった。
「舞さん、私からも感謝を言わせて欲しい。」
「えっ?」
 エーリッヒは、舞の目を観ることが出来ず項垂れたまま呟いた。
「娘はサッカーコーチの父を持ち、周りから嫌な思いもしたでしょうが何1つとして不平を言ったことが無かった。それは私に心配掛けまいとする娘の健気さだと思っていました。でもそれではダメなんですね、家族なら辛い時、喜びたい時を共に伝え合わなければいけない、1人で背負うことはないのだと。」
「でもエーリッヒさん、"思いやり"とは得てして親から子の一方通行かと思われますがその逆があっても良いと思いますよ。分からなくてもしっかり支え合うこと、理解しようとすること、これは家族でなくても出来ますから。私達もそういう関係になれると良いですね。」
 エーリッヒは、遂に舞をしっかりと見つめてきた。
「舞さん、貴女達が私に望むものを教えて下さい。」
 舞もまた椅子に姿勢を正し座り直した。
「エーリッヒさん、当該チームの監督契約を2018年度の後半戦より5年契約にて締結させて下さい。この半年の給料は、当該チームの部長級としフットボールリーグ・チャンピオンシップ昇格の際に報奨金及び契約過重金を提示させて頂きます。」
「対応を修正契約とする意図は?」
「監督としての実力を証明するに当たって未知数であるため、それを実力で示して頂くためです。途中契約にも関わらず不快に思われることと思いますが、是非、実力を見せつけて下さい。」
「確かロンドン・ユナイテッドFCは現在6位でしたね・・そうですか。」
「それと・・」
 舞が敢えて語尾を切ったことでエーリッヒとアリカの表情が引き締まった。
「ラルフマン家の借金を是非、肩代わりさせて下さい。」
 アリカは舞の言葉を聞き思わず父、エーリッヒの顔を見た、彼の顔が複雑かつ厳しいものになっていく。エーリッヒはテーブルに両肘を乗せ、手を顔の目前で組み舞を見据えた。
「アリカの面倒も見てくれる訳ですよね?」
「面倒?」
 舞はエーリッヒに微笑む。
「私、アリカに伝えましたよ『例え、貴女のお父様がチームを選ばなくても、貴女をウチの会社に推挙しグリフ製薬会社の陸上部で走らせてみせる。』と。」
「舞さん・・、アタシ、アタシ・・絶対頑張るから!貴女に後悔なんかさせないから。」
 アリカはエーリッヒの隣の席から手を伸ばして彼女の手を泣きながら握り訴えた。
「其方にとって良い話とは思ないが、何故です?何故、そこまで・・」
「エーリッヒさん、貴方という人物に掛けてみたいと思ったからです。」
 舞は"ニッコリ"と笑い言い切った。エーリッヒは、軽く吐息を吐くと背もたれに深く腰掛けた。
「そこまで言われて引いてしまったら、私は男として恥ずかしいですよ。」
「では!?」
「承知しました。微力ながらお力添えをさせて頂きます。」
「パパ!」
 ロンドン・ユナイテッドFC監督就任を受け入れたエーリッヒにアリカは抱き付き涙を流して喜んだ。長い隠遁生活であった、彼は遂に立ち上がったのである。
「はー、良かったわ・・ホント・・良かった
、ありがとうございます。」
 舞は立ち上がって深々とお辞儀をした。エーリッヒは慌てて立ち上がる。
「いや、勘弁して下さい!おかげさまで覚悟が出来ました、感謝するのはこちらの方ですよ。」
 エーリッヒが立ち上がって会釈した舞を見て慌てて立ち上がった時であった。
 "ビー!"
「あれ?誰か来たみたい、誰だろう?」
 アリカがインターフォンに気付き涙を拭きながらモニターを見に席を立った。
「はい・・」
「突然、失礼致します。原澤と申しますが、当社の北条はこちらにいらしてますでしょうか?」
「・・少々お待ち下さい。舞さん?」
 舞は真剣な表情になるとそのまま席を離れ玄関へと向かった。エーリッヒとアリカも互いに顔を見合わせ後に続いた。玄関では舞が内側から扉を開くのが見えた。
「お待ちしてました。お忙しいところ、恐れいります。」
「遅くなって申し訳ないね、大丈夫かな?」
「はい。お二人共、オファーを受けて下さいました。」
「そうか、さすがは北条チーフだ!!」
「そ、そんな・・お認め頂いたことが功を奏しただけですから。」
「あのう、舞さん、其方の方は?」
 玄関で耳朶を赤く染めた舞が何度も会釈を男性に繰り返しているのを見たアリカが声を掛けてきた。
「あ、ごめんなさい・・こちらはグリフグループ会長の原澤です。」
「初めまして、北条からは兼ねてよりお二人の事を伺っておりました。当方の誘いを御承諾頂きまして、誠にありがとうございます。」
 舞は驚いて原澤会長を見つめた。組織のトップである会長が玄関先で直立から深々とお辞儀をしたのだ。これにはエーリッヒも驚いて玄関口まで飛び出して来た。
「あ、いや、会長さんがそのような・・困ります、頭をお揚げ下さい。さ、どうぞ中に。」
「すみません、では失礼致します。」
 コート姿の原澤会長は、再度軽く会釈をして玄関に入った。横に居る舞が説明する。
「会長、こちらがエーリッヒ・ラルフマン新監督と広報課勤務となるアリカさんです。」
「そうですか、宜しくお願いします。」
「いいえ、どうぞお上り下さい。」
「原澤会長、コートを。」
「ああ、すまないね。」
 原澤会長に舞は玄関口でコートを脱ぐことを勧め彼から脱いだコートを受け取るとスーツに眼を止めた。
(ヒューゴ・ボス?)
 原澤会長が着ていたのは、ドイツ代表の公式スーツ"ヒューゴ・ボス"であり、彼女は彼の本気度を見た気がした。ドイツ製のスーツで通常のサイズより大きめに作られるこのスーツは、彼の身体にジャストフィットしているように思えた。彼女はリビングに導かれた原澤会長の後に続いて入った。
「広いですね、素敵なお部屋だ。私ならここから出たくなくなってしまう。」
「そう仰って貰えると嬉しい限りです。」
「エーリッヒさん、奥様にご挨拶したいのですが、御写真は?」
「ママの写真なら彼処に・・」
 アリカが指差した先は舞が先程見た母マリシュアの写真が家族写真として飾られている場所であった。
「では、失礼します。」
 と言うとマリシュアの写真立ての前に移動した。と、その横に舞が並ぶ。
「こちらが奥様のマリシュアさんです。」
「そう、ありがとう・・ん?」
「私もまだ手を合わせていなかったので。」
「・・そうか。」
 原澤会長の左隣に舞が並び、二人がマリシュアの写真に手を合わせるのをエーリッヒとアリカは不思議そうに見つめている。
「失礼しました。」
「原澤会長・・ご出身は?」
「純粋な日本人です。」
「そうでしたか!あ、舞さんも?」
「はい。私も会長と同じです。」
「なるほど・・いや、実はお恥ずかしいのですが私、日本の"シンゲン・タケダ"が大好きでして、色々と学んでます。」
「"シンゲン・タケダ"?」
 今までと異なり、急なエーリッヒの変わりように舞は困惑した。何処かで聞いたことのある名前・・舞は思い出せない苦しみに苛立った。
「エーリッヒさん、いや、これからはエーリッヒ監督と呼ぼうか、私に晴信公の事を語らせない方が良いかもしれない。」
「何故です?"ハルノブコウ"とは?」
「信玄公の出家前の名前です。私の人生の師は、次弟"典厩信繁公"なんでね。」
「そうなんですか!?今度是非、色々と伺いたいのですが、宜しいでしょうか?」
「ええ、語り合いましょう。」
「ありがとうございます!」
 驚く程のエーリッヒの変貌ぶりだった、と同時に自分がアリカに固執していたことに気付き、舞は動揺し自分の詰めの甘さを呪った。
「あのう、宜しければ舞さんの隣にお座り下さい。」
「あ、待ってアリカ、エーリッヒさんの前を会長に、私がその隣へ移るわ。」
「えっ?あ、はい、分かりました。」
 舞とアリカは舞の食事中のお皿やグラス等を移し、舞はテーブルを拭いた。
「すまない。そうだ!エーリッヒさん、こちらをどうぞ。」
「これは・・」
 原澤会長が紙袋から取り出したのは、紫と白の美しい風呂敷に包まれた物だった。舞、エーリッヒ監督、アリカも思わず見つめる。
「北条チーフ。」
「あ、はい。失礼致します。」
 舞が原澤会長に促され風呂敷を広げると、そこには桐の箱があり面に『森伊蔵』の文字が書いてあった。
("森伊蔵"?お酒・・かしら?)
 舞が蓋をのぞいて観ているのをエーリッヒ、アリカも覗き込む。
「これは・・」
「"森伊蔵(もりいぞう)"といいまして日本の森伊蔵酒造が販売する芋焼酎です。鹿児島産有機栽培のサツマイモを原料とし、手間のかかる伝統的な『かめつぼ仕込み』により生産してましてね森伊蔵は、芋焼酎の独特な臭みの無い、まろやかな味わいが人気を博しているんですよ。」
「日本のお酒ですか!ほう、初めてです。ちょっと、失礼します。」
 エーリッヒが箱を開け、瓶を取り出した。
「原澤会長・・"森伊蔵"ってかなりプレミアムな芋焼酎では?」
 舞は原澤会長に身を寄せ心配してきた。
「北条チーフ、氷とロックグラスを三つ用意してくれ。」
「あ、はい・・少々お待ち下さい。アリカ、氷とロックグラスを三つ貰える?」
「はい。」
 舞に言われてアリカがキッチンへと向かった。エーリッヒは、瓶のラベルを観て興奮気味だ。と、原澤会長が舞に耳打ちする。
「実はJALの国際線機内販売で、森伊蔵を買うことができるんだよ。ただし、森伊蔵の機内販売は、国際線のファーストクラス、ビジネスクラス限定なんだがな。」
「そうでしたか。」
「でなければ、ネット販売になるのだよ。」
「お待たせしました。」
 アリカが3つのロックグラスに氷を入れて持って来た。
「ありがとう、エーリッヒさんこちらにそれを。」
「あ、はい。」
 原澤会長はエーリッヒから森伊蔵の芋焼酎の瓶を受け取ると栓を開け、氷に当てるようにそっと焼酎を注ぎ込んだ。
「さあ、呑んでみて下さい、口に合うといいが。北条チーフ、君もどうかね?」
「頂戴致します、あ、会長、私がお注ぎ致します。」
「うん、すまない。」
 "コ、コ、コ、コ、コ、コ!"
 舞は原澤会長が注ぐのを真似て同様に注いだ。
「ほう!上手いな、ありがとう。」
「いえ、どうぞ。アリカはジュースで大丈夫?」
「仕方ないけど、我慢します。」
 アリカは、若干唇を尖らしてジュースの入ったコップを持って来たところで、原澤会長が乾杯の音頭をとった。
「では、エーリッヒさん、アリカさんの今後を、そして北条チーフの頑張りを労い乾杯だ。"Prosit(乾杯だ!)!"」
 四人はグラスを鳴らせて呑んだ。エーリッヒと舞は芳香を楽しんでから口に含む。舞は香りを嗅いだ時に芋の匂いがほとんどしないことに目を見開き、口に含んでからは目を瞬かせた。
「美味しい!でも、ほとんどお芋の匂いがしないんですね。あ、でも、ん〜!来ますね、ロックだわぁ〜。」
「これは美味い!まるでスイートポテトみたいだ。樽を使ってるのか?甘味と辛さのバランスがとても良い。何より後味に旨味と香ばしさがあって後味が長く感じますね。」
「美味かったかね?」
「ええ。とっても!」
 原澤会長は持って来た紙袋をエーリッヒに差し出した。
「同じ物をもう一本、それと長期熟成したものを一本持参しました。愉しんで貰えるとこちらとしても冥利に尽きるというものです。」
「宜しいんですか?」
「もちろん。」
「そうですか!では、お言葉に甘えて、アリカ。」
「はい。」
 エーリッヒに呼ばれたアリカは、側に来ると父親から紙袋を受け取りキッチンへと消えて行った。舞はその姿を目で追うと同時に隣から"カラン!"と氷の音が聞こえたため、視線を音のする方に向けた。
「美味い・・いい味だ。」
 原澤会長が満面の笑みを彼女に見せた瞬間、何故だろうかある景色が脳裏に浮かんだ。
(この、身体が心地良さに"ざわめく"の、何故かしら、懐かしいような・・)
 彼女は全身に走る気怠い快感の波に漂うかのように、ただ彼を惚けたように見続けていた。
「北条チーフ、悪いが私もそちらの白ワインを頂いても良いかね?」
「あ・・はい、はい!すみません。」
 原澤会長から頼まれた時、一瞬頭が真っ白になってしまったところをエーリッヒは無言でアリカにグラスを持ってくるように指示してくれた。
「お待たせしました、舞さんの新しいグラスに替えるね。」
「そう、ありがと・・会長!?」
 1/3程残った舞が飲み残していたグラスを片付けようとしたアリカの手から、原澤会長はグラスを取ると一気に白ワインを飲み干した。その場に居た3人が呆然と見ていると、原澤会長が話し始める。
「お、辛口ですね、美味い。座っても良いかな?」
「あ、勿論です、どうぞ。」
 エーリッヒは、原澤会長を促したので舞も座ろうと身体をテーブルから離した瞬間、原澤会長が彼女の椅子を引いた。驚く舞が感謝を述べる前に彼は自席を素早く引き腰掛けると直ぐに話し始めたため、完璧にタイミングを逸した彼女は、軽く御辞儀をして"ちょこん!"と腰掛けた。
「エーリッヒさん、君をうちのチームに迎えるにあたって彼女から何処まで話を聴いたのかな?」
 舞が"はっ!"と気付いた表情をして彼に話そうとした瞬間、彼はエーリッヒを見ながら右手を軽く挙げて制してきた。
「チームの目標、プレミアリーグ昇格・制覇、CL制覇、給料体系について伺いましたが・・」
「なるほど・・お!ありがとう。」
 アリカが原澤会長、舞のワイングラスを用意すると、氷に浸かっていた白ワインのボトルを舞は取り出しタオルで拭ってからコルクの栓を開け注ぐ。彼女が自分のに注ごうとした時、原澤会長がボトルを受け取り注いでくれた。彼女は一瞬驚いた表情を彼にしたが、直ぐに会釈をしてボトルを受け取った。
「エーリッヒさん、私はね北条チーフの意見に賛成しているんだが、その意味を話したい。」
 原澤会長は、そう言うとグラスに入った白ワインを口にした。
「これは"ソヴァージュ リンスリーケン トロッケン"当たりかな?」
「えっ、分かりますか?」
「ええ、この辛口は独特ですからね、いや美味い。」
「それは嬉しい!是非、遠慮せず呑んで下さい。」
「ありがとう。」
 原澤会長が空けたグラスに再び舞がワインを注いだ。彼女は先程会長が言った言葉が気になって仕方がない、その意味とは何なのだろうか、と。
「エーリッヒさん、ロンドン・ユナイテッドFCは今回、モイード前監督の退任を受けて新たにチームの立て直しを検討しているのですが、その立て直しに辺りましてコンセプトを設けました。そのコンセプトとは『サポーターと共に監督を育てる』なんです。」
「監督を育てる・・ですか?」
「ええ。」
 舞は原澤会長の言葉を聴いて目を伏せると共に、手元のワインを口に含み考えていた。彼の言うコンセプトは彼女の提案したものであり、それがチームコンセプトとなっていると言われたことは嬉しくもあるが気恥ずかしくもある。彼女はまたワインを口にしたところでそのグラスに原澤会長がワインを再び満たし始めると、彼女は動揺を悟られまいとテーブルに視線を落としたまま会釈した。
「モイード前監督とはどの様な方でしたか?」
「統べる者というのは、引き立て役であり非難の隠れ蓑であるべきだと思うのですが、彼は残念ながら主役でありたかったようでね。」
「・・なるほど。」
「北条チーフ。」
「はい。」
 舞は原澤会長に呼ばれて姿勢を正しエーリッヒを見つめると語り始めた。
「チームとしてリセット及び再始動の絶好のチャンスと捉えています。次期監督について就任前から、そして以降もドキュメンタリーを広報に追い掛けてもらい、第二のマンチェスター・ユナイテッドのファギー(ファーガソン前監督)を作りあげてはどうかと我々は思っているのです。」
「えっ、もしかして"その第二のファギー"を私に課しているのですか?」
「そういうことになります。」
 エーリッヒは、原澤会長と舞の言葉に眉間へ皺を寄せて腕を組み考え込んでしまった。舞は自分の説明が足らなかったかと心配し、更に説明しようと身を乗り出すのだが、原澤会長がそれを右手で制してきたため仕方なく彼女は視線を落とし、椅子で姿勢を正した。やがて、沈黙がリビングを包み込みアリカなどは"モジモジ"して落ち着かない様子が続いた。そんな時、エーリッヒが口を開いた。
「分かりました。色々と戦略を含めてプランニングが必要ですね、マスメディア対応等もあるでしょうし、考える必要がありそうだ。」
 エーリッヒは、顎に手を置き呟くように言った。
「エーリッヒさん、1ついいかね。」
 原澤会長は、ワインを一口吞みテーブルに肘を付き口元で手を組み語り掛けてきた。
「はい、何でしょう?」
「ドイツ人は日本人程、他人の感情を重視はしないね、感情よりも規則や理屈を重んじる。ドイツ語ではこういう人のことを"コップフメンシュ"(Kopfmensch=頭を優先する人、感情よりも理屈を優先する人)というが、この国には"コップフメンシュ"が多いように思える。」
「"コップフメンシュ"ですか?」
「そうだ。例えば、アンゲラ・メルケル首相は"コップフメンシュ"の典型といえる。彼女は政治家になる前は、物理学者だった。メルケル氏はどんな状況でも感情を顔に出さず、冷静沈着に振る舞うことで知られるているが演説の内容も理詰めで、聴衆の感情に訴えかけるような話し方ができない。感情よりも合理性を重んじる典型的なドイツ人だと言える。」
「確かに、我が国では感情は重要な判断の妨げになると考えられていますから、至極当然なことと思います。」
「難しいかもしれんが、その考えは今日で忘れてくれ。」
「忘れる?」
「人はロボットではない感情を有する生き物だ。今まではドイツ代表として合理性が通用したかもしれんが、ロンドンで我がチームの監督をするとなれば考えを改める必要がある、分かるな?」
「はい、それに関しては理解しているつもりです。」
 舞は原澤会長の深い洞察力に鳥肌が立った。リサとジェイク、そして自分の何と浅はかなことか。会長が"三顧の礼を尽くす"という意味は、ドイツ代表コーチの経験しかない、彼の"コップフメンシュ"を懸念してのことだったのだ。家族主義の様な南米選手達にとって、理屈を優先するなど通用するはずがないと言える。
「エーリッヒさん、これから我々は長い船手となる。皆がチームに誇りを抱き去り難き、来易く、サポーターのため、会社、スポンサーのため尽力して欲しい、宜しく頼む。」
「あ!いや、会長!こちらこそ、お願いします。」
 そう言うと原澤会長は立ち上がり深々とエーリッヒに頭を下げた。これにはエーリッヒ、舞も慌てて立ち上がると深く頭を下げた。そんな3人が頭を下げあってるのを見て、アリカが吹き出した。
「ちょっと、アリカ!」
「ごめんなさい、つい。」
「可笑しかったかい?」
 舞は原澤会長の穏やかだが試すような呟きに身体を強張らせた。
「すみません。」
「私は柔道を学んだことがあってね、相手に礼を尽くすことは本懐だ。アリカ、礼を尽くしている人を笑うことは君の格を下げることになる、覚えておきなさい。」
「はい・・」
 アリカは原澤会長に言われて顔が引き攣っているのが分かる。会ったばかりの自分のボスに叱責されることなど彼女の人生には無かったのかもしれない。
「会長、私が彼女をサポートしますので今回は御容赦願えますでしょうか?」
 舞が今度は丁寧に頭を下げたのを見てエーリッヒも原澤会長に身を乗り出し謝罪した。
「会長、私からも謝罪させて下さい。娘はまだ国際社会というものを理解してません。私共々、御指導、御鞭撻の程、宜しくお願い致します。」
 原澤会長がアリカの表情を確認しているのを舞は見て動悸が早まるのを感じた。彼女から見てアリカの表情は動揺しているように見え、彼女のメンタルコントロールの必要性を感じた。
「アリカくん、お父さんと北条チーフがこのように言っていることを君はどう思った?」
「ごめんなさい・・と。」
「確か君はYouTubeもしていたね。」
「はい。」
「そこで、不快なコメントをされたことは?」
「あります。」
「どう思った?」
「嫌だなぁ・・て。」
「そんな状況下が陸上、仕事で君の身に起きた場合、ブーイング、批判の最中、実力を発揮出来る自信があるかね?」
「どういうことですか?」
「人には喜怒哀楽の表情がある。それをコントロール出来ることこそ、一流選手の第一歩だと思うぞ。」
 舞は原澤会長がアリカの人となりをも見に来ていたことを改めて認識させられた。彼女の社会人としての質を向上させること、それが急務であると彼は言っているのであろう。
「君が超一流のアスリートとして、また、社会人として敬意を払われることもあれば、非難の的になることもあるだろう。"声援に感謝"し"非難に謙虚"であることを忘れないで欲しい。」
「はい、ありがとうございます。」
 アリカが素直に頭を下げたことに舞は"ホッ!"と胸を撫で下ろすと共に彼女が周囲から学び取ろうと考えが変わり始めていることを確認して嬉しくもあった。再び席に座ることを原澤会長から促さられ、今後の予定を説明するように言われた舞は手元の資料を見せて説明した。エーリッヒが眼鏡の縁を持ち上げ見入っている。
「なるほど・・時間が無いですね、これは厳しい船出になりそうだ。」
「ご迷惑を御掛けします。」
「いや、覚悟のことです。」
「ロンドンでの居住については、お任せ下さい。こちらのお住まいは、如何なされます?」
 エーリッヒは、リビングを見渡してからアリカをそして、最後に写真の妻マリシュアを眺めてから呟いた。
「このままで・・」
「承知しました。」
 舞は胸の奥が"キューン"と締まるような痛みを感じた。亡き妻との最後の思い出となった住まいは"感慨深い"などという言葉では表せないのかもしれない。彼の表情、言葉から亡き妻への愛を感じた。アリカの今後についての説明を終え質疑応答を確認した舞は原澤会長に向き直った。
「会長、以上となります。」
「そうか、では最後にあの一件を頼むよ。」
「あの一件?あ、はい、承知しました。では、もう一つ話を進めて宜しいでしょうか?」
「何でしょう?・・あ、すみません。」
 舞の問い掛けにエーリッヒ監督が表情を引き締める。彼女は彼のグラスに氷を入れ芋焼酎を注いだ。
「アリカさんから伺っていたのですが"ニック・マクダウェル"君を是非、ウチのチームに入れたいと思うのですが如何でしょうか?」
「"ニッキー"ですか!?」
「はい。もし、彼が逸材であるのならば我がチームのカピターノ(キャプテン)、そして"バンディエラ(移籍を繰り返す選手がいる一方で、所属チームを変えず一つのクラブでプレーし続けている選手もおり、彼らに対してサポーターは特別な思いを寄せている。イタリア語で「旗頭」という意味で、チームの中心的存在を指すときに使う。新卒加入から同一クラブでプレーし続けて15シーズン目以上の在籍となった選手等を指す。)"として是が非でも迎えたいのですが、どう思いますか?」
 舞はエーリッヒ監督の目を射抜くように見つめて気持ちを訴えた。やがてエーリッヒが椅子に深く腰掛けると、口を開いた。
「そうですか・・なるほど、良い案ですが幾つか障害があります。」
「障害とは?」
「アリカから聴いているかと思うのですが、彼は正規にクラブ入りしていません。唯一が私の教えのみであること。それと、今は家庭の事情でサッカーを続けているとは言えない状況にある。」
「パパ、ニッキーは今も続けているわ!」
「もう一つは、その要因として家庭の事情が挙げられる。」
「お父様の御病気の件ですね。」
「そう・・まさか!?それも面倒を観る、そういうことですか?」
「はい。如何ですか、彼にその価値はありますか?」
 エーリッヒは、原澤会長、舞と二人の表情を見たのだが二人共、迷いが感じられなかった。それどころか、愉しげでさえある。ただ、ロンドン・ユナイテッドFCで長期政権を確立するには、やはり、バルセロナFCのメッシのようにチームのカピターノでありバンディエラたる生え抜きが必要なのだ。彼等はその必要性を理解し、私の教え子であるニッキーを勧めてきたのだろう。
「彼の今住む所はとても治安が良い訳ではないです、それをどうしますか?」
 舞は痛い所をエーリッヒに突かれ、口を引き締めた。彼に出て来てもらいたいのだが、アリカの話では忙しくてそれどころではないらしい、というより、半ば人生を悲観しているようなことを言っているようだ。エーリッヒ、アリカにお願いして一緒に・・と言うしかないと覚悟を決めた時だった。
「その事なんですがね、御連絡をお願いして私と北条チーフで行って来たいと思っています。」
「か、会長・・ご自身で赴かれるというのですか?」
「ん、いかんかね?」
 舞もエーリッヒも唖然として原澤会長の顔を見つめた。この人は何を言っているのだろうか?もし、そうなったとしたら、もし一大事にでもなったらどうするつもりなのであろうか。
「会長、それは流石に・・」
「北条チーフ、我等はエーリッヒとアリカさんいう得難い人物に直接会うことで想いを伝えることが出来た。となれば自ずとニッキー君もその一人ならば行かないことが失礼に当たるだろう。」
「で、でも会長、貴方の身に何かあったとしたら会社はどうなるとお思いですか?」
「私など居なくても大丈夫だ。」
「な、何を仰っているのですか!」
 舞の声は最早、絶叫になっていた。アリカなどは舞の変貌ぶりに目を恐怖で痙攣らせる程だ。
「原澤会長、貴方だけでなく舞さんの身にも危険が及ぶことは理解しているんですよね?」
「その件については全く問題ない。」
「全く?何故です?」
「私が彼女を守るからだ。」
「えっ?私を・・ですか?」
 舞は思いもしなかった原澤会長の一言で彼を見つめたまま固まってしまった。
(私を守る・・会長が?)
 あまりのことに彼女の脳はスパーク寸前だ。
「これからは時間との勝負だ。アリカくん、早急にニッキー君と連絡をとってくれ。明日以降でいつなら逢えるかを確認して欲しい。その際は、ロンドン・ユナイテッドFCのエージェントがスカウトに来るということ、お父上の病気について全面的にバックアップする、ということを伝えてくれ。」
「・・はい、承知しました。」
「よし!これでひと段落だな。エーリッヒさん、アリカくん、これからの活躍を期待しているよ、頑張ってくれ。」
 舞は原澤会長の顔を見つめていた。何故、この方はここまで自信があるのだろうか?アラフィフで日本人の初老ともいえる男性が、会社の会長職の男性がだ、私を守るなんて出来るのであろうか・・。しかし、ニッキーに逢いに行くことは危険であるが完遂しなければいけないミッションである、とは言え良作もなく彼女は項垂れるしかない。眼前に広がる深い闇が彼女の心を支配し始めていた。

第6話へ続く。

"この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。"


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