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エッセイ 小生、サイクリング部合宿の思い出を語る①

もうすぐ創部されて50年が経とうとする大学のサイクリング部の元副部長が、合宿の想い出にふけようとしている。実は底辺変態ライターではなく、大学時代はサイクリング部に所属していたのだ。

刮目せずに、鼻で笑いながら見ていただくと幸いである。

この約3年。部に貢献してきたはずの私が思うサイクリングとは、軟骨をすり減らしてペダルを漕ぎ回す変態的行為にほかならない。これ以上でなければこれ以下である。

モーターゼーションが取り巻く今の社会にわざわざ車輪を人力で回転させる意義は何かと言われたら、私は答えようがないし、答えたくもない。しかし、「それでも漕ぐんだ!」と言った大和魂を見せつけてしまっては、ポストコロナ世代にあたる新入部員諸君は閉口してしまうので、それは控えようと思う。

ではサイクリングをする意味は何か?
ここでは「遠くに行くため」と答えておこう。

サイクリング部には合宿があった。そもそも合宿がメインである。サイクリング部とは名ばかりの旅サークルかもしれない。

まず、大学1年の3月に行った沖縄合宿の思い出に浸ろう。
結論から言うと、散々たる合宿であった。

神戸空港から飛び立った飛行機で両耳の鼓膜を痛め、沖縄に降りたったら季節外れの生暖かい風に敏感肌を痛め、その日は合宿全体を取りまとめるC L(チーフリーダー)だったので心を痛め、身体もろとも沖縄に来てから甚だしい傷を負っていた。

那覇空港の職員の方が待って来てくれた鉄塊(自転車)を那覇空港に置き去りして、1人タクシーを呼ぼうとしたが、そこは私の良心が働いたので止めた。ちなみに私の両親が東京旅行に行っていたのもちょうどこの時期である。

「あっじゃあ行きましょう」

私を先頭にして、那覇国際通りに向かう。
しかしその瞬間、パチンと誰かの自転車から嫌な音がした。

その自転車の主は後に、帰りの電車の乗り継ぎに失敗した私と共に新山口のカラオケで一晩過ごしてくれた友人だ。そして彼は後々、歴史ある自転車部の部長になる男である。

「大丈夫か!?」と声をかけるも、私は機材トラブルにブルブルと震えていた。
生暖かい風が妙に不安を煽る。
やがてテクニカルな先輩の助太刀もあり、走行を再開した。

那覇国際通りに到着。
しかし、この生暖かい風が熱風となり、合宿メンバーに不協和音が生まれる。
この日の「ホテル」は「快活CLUB那覇国際通り店」。これから1週間、3回も利用するとはこの時は思いもしなかった。

「おい。ここ、駐輪場ある?」

事前に駐輪場の存在は確認済みだったが、どこにあるのだ?ホテルに泊まれないではないか。
しどろもどろしていると、近隣の建物の一角に狭い駐輪スペースを発見した。

「狭っ?!」
「チャリ取られるぞ!」

ごもっともと言いながら、チャリを地球ロック。
那覇空港から那覇国際通り、誠に長い旅であった。もうこの合宿も七日目の気分であった。

やっとの思いで、快活CLUB那覇国際通り店に入ると、店内はビリヤードを嗜む日焼けボーイが辺りを蹂躙していた。

こんなに人がいたら、愛すべき禁煙個室スペースが無くなってしまうのでは?と周りの心配をしないClらしからぬ思考がよぎっていた。

結局、長い長いスペース取りあいっこの結果、喫煙個室スペースに配属されたのである。

明日、心臓が不動作に陥ったら、那覇にて墓地をつくることになる。せめて、骨は本州に持って帰ってと願いながら、ティッシュ一枚を顔に被せ、本当に死人のような形相で天井を見つめることにした。

そして明日もClなので、ルートの確認を急ぎ、アダルトビデオを少し確認してから、後々土砂降りの朝を迎えることになった。





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