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エッセイ 真面目に物事を考える

特筆すべきことはないにもかかわらず、調子の良い時には、週の半分はブログを更新している。

今日は午前中、刹那的快楽を味わった後、午後からは図書館に行き、これからの不安を飲み込んで研究もどきをおこなった。夜は我が「弟子」から「車輪の下、サマー・タイムマシン・ブルース、四畳半タイムマシンブルースを読みました」と連絡があったので、「明石さんは俺の嫁だ!誰にも渡さん!」と返信しておいた。痛々しいほどの、オタク気質である。余談だが、私はこう見えて嫁ができたらきちんと愛する男である。

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パソコンを構っている途中、1つネット記事を見て印象に残ったことがあった。

私は一般に就職活動する世代にあたるので、こういう記事は気になって見るわけだが、気持ちの良い読後感はなかった。記事の中で目を見張ったのは、ロクに勉強もせず、専門性もない大学生が多すぎることへの警鐘である。

世間から「人生の夏休み」を楽しむ場所として大学が認識されていることは否めないし、私自身もそういう考えを否定して「大学は学問を極める場所だ!会社で即戦力になるための就職予備校ではない!」と声高々に言いたいところだが、そのような資格はないのかもしれない。

私は大学で「歴史学」という杏仁豆腐のように一言では説明がつかない学問を修めているが、はっきり言ってこの大学4年間で専門性を身につけることは無理だと思う。そもそも、専門性を身につけたとして、それが社会に還元できる力かどうかすら分からない。

もちろん、江戸時代の古文書を読んで、当時の複雑な歴史について文献を読みながら報告するなど、専門的な勉強をしてきたつもりではある。ただ、それが社会に「役に立つ=還元できる」かと言われると、簡単に頷くことはできない。

今までレポート課題などで幾度とあった、そういう「歴史学は役に立つか」論争の際には、「歴史学は人文学という人間が複雑に絡む学問なのだから、社会の役に立つかといった即物性で判断すること自体がナンセンス」という立場を取っていた。要するに、歴史学には数値で測れない価値があるという考えに立っていたのである。

しかし、そればかりでは良くないと、最近思うようになった。いつしか働く上では、歴史学を学ぶ意義を自分の言葉で表現しないと、結局思い出づくりのために大学に行ったと思われかねないからだ。そればかりは、私も嫌である。

先ほども言ったが、数値で測れない価値があるから、歴史学は大事だと言っても、やはり限界はあるように感じる。それは歴史学者である藤原辰史氏の言う「手垢にまみれた擁護論」(山室信一編『人文学宣言』ナカニシヤ出版、2019年)にほかならない。

私のような浅学者がそんな「擁護論」を用いても、きっと周りの人々からは馬鹿にされるだけだろうし、よくても慈愛の眼差しで微笑んでもらえるだけだろう。

結局、大学四年間でできることは限られているので、今は自分にやれることを素直にやるだけだと思う。せめて、「自分の役には立った」ぐらいには言えるようになりたい。日本の大学生には専門性が無いと日本電産の社長は言っていたが、実を言うと、私からすれば、大学四年間で専門性を分かった気になることこそ、おこがましいのである。

運よく卒業研究論文を提出できたとして、私はその先何を思うのだろう。自分のしてきた研究における未来への発酵力、培養力に期待するところである。

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