人間関係は循環するのだ。
ベトナム・ホーチミン散策では、カフェ・コーヒー屋さん巡りも楽しみの一つベトナムは、コーヒー豆の生産量が世界第二位を誇るだけあって、コーヒーショップの数もすごく多い。大袈裟なようだけど3歩歩けばコーヒーショップを見つけることができる、と言えるほどたくさんの数のコーヒーショップがある。
クオリティで有名なコーヒーショップは、それに比例してそのサービスもとても良くて居心地のいいお店が多い。お店に入るなり、こちらが外国人とわかる「Hello!」と声をかけてくれたり、English表記のメニューを用意してくれる。スタッフによっては、「How do u feel?? Where come from?」とおしゃべりも楽しませてくれる。こちらも異国の地で、そのようなおしゃべりができることはとても嬉しいことだ。
僕は、ご来店いただいいた方には、僕自身がこれまで訪れてきて憧れているアメリカやベトナム、台湾のカフェを模して「こんにちは!」と声がけをしている。「いらっしゃいませ!」とお声がけするよりも、「こんにちは!」と声をかける方が、コミュニケーションが始まりやすいような気がするからだ。多くのお客様は、ニコッとこんにちは!と返してくれる。そうなるとやはりその後のコミュニケーションも取りやすい。距離感もほんの少し近づくような気がする。
当店のお客様は、本当に当店への気配りをしてくださる方がとても多くて、こちらとしてもとても恐縮をしてしまう。そして、とても勉強になると思っている。
僕自身もお客として他店にお邪魔する時は、例え開かれたお店といえども他の方が運営している場所に脚を踏み入れるということは、相手の「城」に「お邪魔する」ことに他ならないから最大限のリスペクトの気持ちを持って臨んでいる。それがコミュニケーションの基礎だと思っている。それが相手に伝わると相手も最大限のリスペクトを持って、接客サービスをしてくれる。いや、それ以上のことをしてくれることも多い。日本人の「お客様は神様だ」という旧態依然とした客としての在り方は、客として「損」しかないと思っている。もちろん、僕は経営者として、一人のスタッフとして、ご来店くださるお客様に対して個人的な感情でそのサービスに優劣はないし、そんなことをすべきではないと思っている。でも、感情の行き交うコミュニケーションを取れるお客様には「プラスα」をして差し上げたいと思うのは「人情だろう」と思うこともまた事実で、そういうところにこそ人間関係のある「お店」の良さがあるように思う。"自分は客だ!"という偉そうな態度を取ってしまっては、お店側も、お客側も何も気持ちいいことはないのだ。
こんな偉そうなことを書いている僕だけれど、そんな僕にも苦い思い出がある。
アメリカを一人旅をしていたときのことだ。
舞台はオレゴン州ポートランド。名前は伏せるけれど欧米では有名な高級オーガニックスーパーで買い物をしたときのことだ。訪米前から憧れていたそのスーパーで買い物ができるということにテンションが上がって、いろんなものを買いものかごに詰め込んでしまった。意気揚々とレジに向かったのはいいものの、アメリカのスーパーでのレジでは日本のそれとは少しやり方が違う。日本はレジ台にカゴを置けば、あとはレジのスタッフさんが「ピッピ!」とやってくれるけれど、アメリカのスーパーでは自分でカゴから商品をベルトコンベアに乗せていくやり方。商品をベルトコンベアに乗せるとそれがウィーンと動いてレジスタッフの目の前まで商品が動き、そこでスタッフさんが「ピッピ!」とやる。僕はあまりに買い込んでしまったものだから、そこで大慌てになってしまった。スタッフのきれいなお姉さんは親切だった。慌てている僕を落ち着かせようと笑いながら「Don't Worry,No problem.Hello,How are you.」と声をかけてくれた。でも、僕はそのときに「Yes.」とだけ答えてしまった。その瞬間に、女性の笑顔が消えるのがわかった。いや、少し憮然とした表情になった。そして、僕の買ったものを、明らかに丁寧に扱わなくなった。レジの打ち込みを終わった商品を放り投げるようにして、買い物袋にしまう僕へ渡してきたのだ。
そのとき、僕は彼女のその行動にびっくりしてしまった。なぜ、商品を投げられなければいけないのか?日本人への差別か?なんて思ったりもしてしまった。でも、今では彼女の行動の理解できる。僕の方こそが彼女に対して、礼を失した行動を取ってしまったのだ。気を配って色々話しかけてくれた彼女に対して「Yes.」とそっけない返事をして彼女からのせっかくの声がけを、まるで叩き落とすかのごとくの返答をしてしまっていた。コミュニケーションを拒否するという、こっちの方こそ無礼な態度であったことを今では理解している。僕は、あのとき自分のことで精一杯で挨拶もしなかったしコミュニケーションも拒否した。そんなつもりはなかったとはいえ、客観的に見ればたしかにそうであり、そんなつもりはなかったというのはこちら側の論理であって相手には関係がない。当時の僕は、今よりも英語のレベルが低かった、というのも何も言い訳にならない。
「コミュニケーションを拒否する」というのは、人間関係にとって不快感を感じる最たるものだという気がしている。確実に悲しい気持ちになるし、時にして傷ついてしまうからだ。人間にとって、人とのつながりというのはすべての「基礎」になるものだと思っている。たかがコミュニケーション、されどコミュニケーションなのだ。だから、彼女からの気遣いを「Yes.」の一言で僕は彼女を傷付けたのだ。無視したのと変わらない。彼女の憮然とした行動はそれに呼応した行動だったのだ。今ではそう理解している。
コミュニケーション下手な日本人「シャイで奥ゆかしい」という評価を得ることもあるけれど、でも自分たちでは「幼稚なだけだ」と自省し改善をしていくのが良いと僕自身は個人的に考えている。僕自身もかつては「人見知り」だと周囲に嘯いていたときがあるけれど、これは「自分は人見知りでコミュニケーションが苦手なので、どうぞ僕に気を遣ってください」ということを声高に宣言しているに過ぎない。なんと子供じみて自分勝手なことだろう。
相手がどう思うか?ということを、まずもって考えるのが大人だ。
関わる相手方への気遣い、気配りが、大人力の基礎であり、同時に大人としての「たしなみ」であると考えている。コミュニケーション力を上げていくというのは、イコール「大人になっていく」ということだろうと思う。
コミュニケーションはとても難しいものだ。けれど、そこの成長には、世界の広がり、発展があるものだから、そこに意識を向けることは、人生を謳するためには、絶対に必要な基礎的事項であると考えている。
誰かを傷つけるより、誰かを楽しませる方が、自分の人生も彩豊かになることは想像に難くないからだ。
打算的な考え方かもしれないけれど、相手を思いやる気持ちって自分が得をすることも多いも思う。まさに"情けは人のためならず"なのだ。
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