香港旅 知らないおっちゃんと豚まんを食べる充実の始まり
飛行機に乗り込むなり眠り込んでしまった僕は、香港国際空港に着陸したガタンという機体が揺れる衝撃で目を覚ました。
狭い座席で、姿勢ただしく寝てしまっていたために、身体のあちこちがガチガチに固まってしまっている。首をそっと動かし、飛行機の窓の外を覗き込んでみる。まだ外はほのかに薄暗い。まだ夜は明け切ってないようだった。
時刻午前6時。いよいよ香港国際空港へ降り立つ。
ターミナルに横付けされた機体のドアが開き、多くの乗客が我先にと出入り口へ急ごうとする。僕もまたこのときばかりはそそくさと席を立って外に出ようとしてしまう。どう考えても前方の乗客が降りない限り、前に進めるはずはないのに座席から立ち上がりバックパックを背負い、前方の乗客へ"早く降りろ"と気持ちの中で念を込めて"あおる"のだ。毎回、不毛なことをしているな、と思う。でも、身体が痛い。あちこちが痛いのだ。早くこの狭い空間から、自分の身体を解放してやりたい。
押し合いへし合いしながらターミナルに降りたった僕は思いっきり深呼吸をした。湿り気のある東南アジアの独特の空気だった。気温は、東京のそれとあまり変わらないけれど、やはり湿度は高い。
海外旅行の一番の楽しみは、その国の「匂い」を感じること。匂いこそ一番思い出に残るもので、これまでの一人旅のいろんな記憶が匂いと一体化して僕の中にとどまっている。シアトルでは排気ガスとガソリンの混ざったような匂いがしたし、ポートランドでは甘ったるい草の匂いがした。台湾では八角の匂いが身体全体にまとわりつき、マレーシアやベトナム、タイではドリアン、マンゴーなどの南国フルーツの発酵しているような匂いが鼻の奥を突いた。
深呼吸を繰り返しながら、香港は"どんな匂い"がするのだろう?と鼻に意識を集中させてみる。
期待に反して匂いがしない・・・。正確には、なにかしらの匂いはしているのだけれど、心をざわつかせるほどの強い匂いがない。拍子抜けというか、肩透かしをくらったような感じがした。何の匂いもしないせいで香港の到着時には過去に行ったどこの場所の場合よりも気持ちの高揚具合は低かった。むしろフラットだったと言ってもいい。
とはいえ、香港ならではの匂いを嗅ぎたくて、イミグレに向かう通路でもあちらこちらをキョロキョロしながら鼻をクンクンさせた。これ以上の挙動不審はない。異国の地に到着してあちらこちらの匂いを嗅ごうとしている。変なやつ極まりない。このこだわりにはご理解をいただけないかもしれないが、僕にとってはやはり重要な問題だった。それでも、やはり香港は無臭に近った。トイレでさえ、それほどの匂いがしなかった。とてもきれいなトイレだった。トイレがきれいなことには、何の文句もないしむしろありがたいことなのだけれど、なんだか残念だった。変なやつだと思われるかもしれないが、どこもかしも匂いがしないのがやはり少し残念だった。
気を取り直して、イミグレ前で「入国カード」を記載してから、入国審査に向かう。イミグレというのは、どこの場所でも心地いいものではない。笑顔で「Hi」と声をかけてもチラッとこっちを見返すだけで、審査官はガムをかみながら淡々と手続きを進めている。審査官の彼女に冷たくこちらに向けられる視線によって、劣等感みたいものに苛まれてしまう。完全に被害妄想なのだけれど。質疑応答みたいなものは皆無で、パスポートと入国カードの控えと滞在期限の書かれた紙を渡されて数秒で審査は完了。世界最強クラスの日本のパスポートの恩恵だな、とイミグレのたびに日本の信用を積み重ねてきてくれた日本の先人たちに感謝する。
入国ロビーに入ると、グーっとお腹が鳴った。お腹が空いたなと思って周りを見てみると、ほとんどの飲食店が開店前だったけれど、1つのお店だけ開店前から列になっているお店があった。近寄ってみるとまもなく開店する様子の「肉まん」のお店だった。そこでやっと「匂い」らしい「匂い」がした。台湾でも感じたことがある「八角」の匂いだった。
「来たぁ!」と僕のテンションは、そこで爆上がりした。これですよ、これを待ってたんですよ。僕は、迷わずその行列の一番最後に並んだ。僕が並ぶとちょうどレジのお姉さんが一番前に並んでいたお客さんの注文を聞き始めた。4人のスタッフさんたちは手際良く、注文を聞いて、商品を渡すという作業を繰り返し、効率よくお客さんをまわしていた。慣れたものである。あっという間に僕の番になり、「豚まん」と「焼豚まん」をオーダーした。すぐに袋に詰めてくれ、「Have a nice trip!」とおばちゃんが笑顔で渡してくれた。僕は「Thank you」と受け取った。ただ、それだけのことなのに、とても心が温かくなった。
豚まん、焼豚まんは、やっぱり日本のそれとは違って、八角が効いた中国風の味わいでとてもおいしかった。ベンチでは僕の隣には香港人(あるいは中国人)のおじちゃんが座り、僕と同じように豚まんにかぶりついている。おもむろに、おじさんに中国語で話しかけてきた。僕の前に並んでいたおじさんだ。何を言っているのかわからないけど、たぶん、うまいか?と聞いているような雰囲気があったので「Good!Good!」と応えた。我ながらテキトーな返答をしてるな、と思ったけれど、おじさんは「そうかそうか」と親指を立てながら満足そうにうなずいて、また自分の豚まんにかぶりついている。
そんなふうに知らないおじさんと二人で、黙々と豚まんを食べた。こんなゆるゆるな感じがいいではないか。会話は成立してないかもしれないし、成立しているのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいいのだ。初めて降り立った香港の空港で、どこの国の人かわからないおっちゃんと「豚まんおいしいなぁ」と心が通じ合い、その時間を期せずして共有できるなんてこんなに平和はないことはない。
「なんだかこういうのいいなぁ。」と心がほくほくした。
これだから一人旅はやめられない。
(続く)
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