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『飯炊き女と金づる男』 #5 めんどくさい男

益次郎はマンションのエントランスから外に出ると、太陽を正面に仰ぎ見て、光の方向に歩き始めた。回転性のめまいがして足元がふらつく。36時間ぶりに起きたのだ、無理もない。

発端は一昨日の夜。ほんとに小さなことだった。洗濯機が止まったのにも関わらず、立ち上がる気配のない妻の千魚(ちか)に対し、疑心暗鬼が生まれた。

益次郎が洗濯物を干し始めるのを待っているようにも見えたし、「お前が干せよ」という強いメッセージのようにも思えた。千魚にはそんなつもりは毛頭無かった。眠気と倦怠感で、なかなか体を起こせずにいただけだった。

「千魚はさ、自分のことを飯炊き女って言うけどさ、だったら……だったらさ、僕は金づる男だよね。これからは金づる男って言うから!」

益次郎は疑心から芽生えた圧に耐えきれなくなり、吐き出すようにそう言った。言った後には、心疚しいものがあった。その場は何もなかったように洗濯物を干すと、逃げるようにベッドに入った。

それから36時間。千魚が玄関の鍵を閉めると同時に起き上がった。体のあちこちが固まっていた。特に膝や肩甲骨のあたりは、骨が軋むほどであった。頭には霞がかかり、散々に寝たはずなのに、また体を横たえたくなった。

今日という日を失いたくはなかった。パジャマを脱いで外着に着替えると、急いで家を飛び出した。冷気が白目に触れ、光が瞳孔に突き刺さった。眩しさに視界が奪われ、反射的に瞬きをしそうになった。

益次郎は、目に力を入れた。もはや太陽を睨みつけていると言っていい。光合成ができるはずはないが、日光を取り入れることで、指の先まで覚醒すれば良いと思っていた。

苦行のような凝視を続けていると、ふと、黒い粉が宙に浮いているのに気が付いた。意識を向けた。

黒点が見えたのかと思ったが違う。虫が飛び始めたのかと思ったが、それも違う。雪の結晶ほど混迷な形はしておらず、まりものようであった。動きに意思は感じられなかった。空気の揺らぎに抗うことなく、ゆらりと舞っていた。

益次郎の歩みが気流を乱し、黒粉(くろこ)は旋回しながら近くに寄ってきた。受け入れがたい気持ち悪さを感じた。刹那、益次郎は黒粉を握り潰した。手を開くと、中指の根元近くに、毛筆から墨が一滴垂れたような模様が描かれていた。

「変異種か…」
これまで見てきた黒粉とは諧調が明らかに違っていた。2つくらい濃度が上がっている。ダークグレーだったのが、はっきりとした黒に変化していた。強くなっている、と益次郎は感じた。

益次郎はパニック障害を患っていた。発症してから18年になる。微小なウィルスが見えることは、花粉が見えることと同じくらい当たり前のことだった。

パニック障害は、脳の病気とも言われている。パニック障害の人間の脳内では、情報伝達を司る物質のバランスが崩れている。そして、脳の部位の一部は正しく機能していない。

18年は、長い。人が産まれ、保育園や幼稚園で幼少期を過ごし、小学校、中学校、高校で入学と卒業を繰り返して成人する。それだけの月日だ。その間、益次郎の脳は誤作動を続けていた。

電車に乗ると脂汗をかき、映画館では過呼吸になる。健常者には見えないものが自分には見えることに不思議はなかった。

ウィルスが黒粉として見えることは、1人を除いて誰にも話していない。見えるだけなのだ。何の役にも立たない能力なのだ。千魚にも話していなかった。話したところで結果は見えている。

これまでも自身の病気のことを千魚に話したことはあった。「ふーん」とか「お医者さんはなんて言っているの?」と言われただけだった。同じことだ。

益次郎は、朝と夜、1日2回散歩をすることにしていた。朝は太陽を浴び、夜は公園でストレッチをする。在宅勤務が始まってもうすぐ1年になる。心が折れないように心掛けていた。

朝はコンビニに行って食べたいものを探し出して買うこともあるけれど、今日はマンションの周りを一周しただけで帰宅した。

洗面所で手を見ると、手のひらが隙間無く真っ黒に染まっていた。けっこうな数の黒粉を払い除けてきたことに驚いた。

ハンドソープできれいに洗い落とす。指の間や爪の先、手首までゆっくりと丁寧に洗う。黒い斑点がすべてなくなったことを確認して、朝ごはんの準備に取り掛かった。

益次郎の朝ごはんは、腹に食べ物を入れることだけを目的としたものだった。食パンの真ん中と四角にバターを配してレンジに入れる。お湯を沸かして粉末のスープを作る。

スープに入れるお湯の量だけは気に掛ける必要があった。味もとろみも丁度良い加減がある。ただ、それも黒粉が見えるのと同じくらい大した問題ではなかった。

食べるのと食べないとでは、その日の体調が大きく違うことを益次郎は経験的に分かっていた。とにかく食べるようにしている。

バターの油がしみ込んだトーストをかじる。咀嚼して飲み込むとスープを一口すする。益次郎は、その動作を交互に繰り返すことで、コントロールできないはずの交感神経の働きを上げようと努めていた。

「はぁーあ…起こしてくれてもいいのになー。冷たいよなー。そりゃーさー、やらかしたのはこっちかもしれないけど。でも、死んでたら、どうすんだよ。もう少し、心配してくれてもいいのになー」

食べ終わると宙に向かってつぶやいた。昨日1日を犠牲にして、千魚が声をかけてくれるのを待っていたのだった。長女のヤマメでもよかったし、次女のイワナでもよかった。

益次郎が、昨日の朝に目が覚ますと、3人で朝ごはんを食べている声が聞こえた。以前に「朝ごはんはいらない、起こさないでほしい」と言ったのは益次郎からだった。

生活のリズムが不安定になり、睡眠薬を飲んで寝るようになった。主治医からは「眠れる間は、寝た方が良い」とも言われていた。長女のヤマメと次女のイワナには学校があるので、益次郎に合わせることはできない。益次郎が3人の規則正しい生活に合わせなくてはならなかった。

いつも同じ時間に朝ごはんを食べる。そのことが益次郎を圧迫した。

千魚は「いつ食べてもいいような朝ごはんを用意するよ」と言ったのだけれど、益次郎は素っ気なく「いらない」と断った。千魚を気遣ったのだ。余計な家事をさせて負担をかけてはいけないと思ったのだ。

ただ、その思いは伝わらなかった。益次郎は気が付かなかったけれど、千魚は益次郎の言葉を聞くと寂しそうな顔をした。

そんな経緯があるので、千魚たちにすれば昨日もいつもどおりの1日だったが、益次郎にはいつも以上に楽し気な声に聞こえた。

益次郎はベッドの中で「声をかけてくれるまでは起きるものか」と決意した。拗ねていたとも、かまって欲しかったとも、仲間に入れてほしかったとも言える。結果、36時間ベッドで寝ていることになったのだった。

「ごちそうさまでした」
益次郎は誰もいない4人がけのテーブルに向かって挨拶をすると、食べ終わった食器をキッチンに運んだ。シンクには千魚たちが朝ごはんを食べたままにしている鍋や陶器の皿がそのまま置かれていた。

陶器の皿には果物が描かれている。みかんが千魚で、りんごがヤマメ、ぶどうがイワナ、誰にも選ばれなかった柿が益次郎。益次郎はそれぞれの皿を1枚ずつ丁寧に洗った。

食器類の洗い物を終えるとキッチンの掃除に取り掛かった。ガスコンロの五徳を慣れた手つきで持ち上げて縁まで拭き、ステンレスが輝くまで磨いた。

いつもやっていることだった。次にキッチンに立つのは千魚がお昼ごはんを作るときだろう。気持ち良くキッチンに立ってほしいものだと思うと、苦にはならなかった。ただ、その気持ちも千魚に伝えたことはなかった。

思いも気持ちも言葉にしなければ伝わらないこともある。同時にそれが苦手という人もいる。益次郎もそうだ。上手くできないのだ。さらに、1年続いた在宅勤務と外出の自粛が拍車をかけていた。益次郎の日常からは、会話が消えかけていた。

<続く>


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