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『飯炊き女と金づる男』 #9 無料相談会

今日は何を食べようか?という問いかけを自分にできるのは幸せだ。千魚(ちか)の場合、そうはいかない。今日は何を作ろうか?という問いかけになる。

年が明けてから、益次郎は朝ごはんに加えて昼のごはんも自分で賄うようにしていたが、まだまだその境地には達しておらず、給料も入ったことだし、やはり今日くらいは外食か、はたまた刺身でも買って海鮮丼にしてやろうか、などと考えながら信号を渡り、銀行までの道を急いだ。

コンビニのある角を曲がり、駅前のロータリーに入る。バス停にはやはり人の列が出来ていて、前の人との距離を取っている分、歩道にはみ出していた。益次郎はショッピングセンターに隣接する目的の建物まで、他人に触れないようできるだけ端っこに寄って歩いた。

無表情な自動ドアが開く。ウィルスで黒くにじんだ手指を、用意されているアルコール消毒液で洗うと、左手にあるATMのコーナーに向かった。

ポールパーテーションで作られた入り口に、銀行ではあまり見かけたことのない黒板タイプの立て看板が置かれていて、益次郎の足が止まった。カフェのランチメニューのように白、ピンク、青、3色のチョークで書かれた丸い文字が楽しそうに踊っていた。

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矢印

ローンと教育費がそんな簡単に解決なんかするかっ、と突っ込みつつも、最下部に描かれたピンクの矢印が指し示す方角に顔を向けた。グレーのスーツに着られている、高校生のヤマメとあまり歳の差が感じられないショートカットの女性と目が合った。

明らかに益次郎の視線を待ち構えていた。胸のネームプレートで銀行員だと分かった。この立て看板を描いたのは、きっとこの子なのだろう。やられた、と思った。満面の笑みを浮かべた女性行員が当然のように近づいてきた。益次郎は慌ててATMを見たが、すべて埋まっていて、3人待ちをしていた。逃げ場は無かった。

「こんにちは!すこーしだけ、お時間よろしいですか?」
笑顔のままにテンションは高く、“少し”を表現するための人差し指と親指の間を狭める仕草すら大げさで、逆に時間がかかるだろうことを示唆していた。

「あ、えーと。そう、ですね。お昼ごはんを食べないといけないし、もちろん他に用事もあるし。うん、でもまあ、そんなに急いでもないかな…」
ポケットティッシュがカバンの中に3つ入っているのに差し出されたら受け取り、待ち合わせ時間まであと5分しかないのに声を掛けられたらアンケートに答えてしまう人間である。きっぱりとは断れない。

女性行員はそんな様子を見て取ると、それ以上しゃべらなくていいですよと、右の手のひらを益次郎の顔の前にぐっと押し出して、
「大丈夫です!そんなにお時間は取らせません。看板、ご覧になられてましたよね。いかがですか?無料相談会。せっかくの機会、ですから」
と、諭すように言った。

「そうですよね。せっかくの機会、ですもんね。まあ、用事はあるんですけど、まだ時間もあるし。せっかくの機会、相談してみようかなあ」
益次郎は、女性行員が向ける天然の笑顔から小判鮫のような人懐こさを感じ取り、諦めた。

「よっしゃ!」横を向き、小さくガッツポーズをしながらつぶやいた声は聞こえていた。益次郎の口から思わず「え?」と声が出た。
「あ、すみません、すみません。では、ご案内しますね。1名様、相談会にご来店でーす」
女性行員が窓口に向かって来客を告げた。居酒屋のような掛け声に、返ってくる声はもちろん無く、ソファで順番を待っている客から益次郎が睨まれた。

検温を済ませると、普通預金の入出金や税金の支払いなどを行うハイカウンターを通り過ぎ、ローカウンターのブース席に案内された。女性行員は「少しお待ちくださいね」と言い残し、隣のドアに暗証番号を打ち込んで解錠すると、中に入っていった。益次郎は独りソファに座り、尻を前にずらし、背中と首を背もたれに預けて思いを巡らせた。

「マンションのローンって、あとどのくらい残ってるんだっけ?ヤマメが高校に入ってからは学費のことしか心配してなかったなー。しかしなあ…ローンにしても、学費にしても、誰かに相談したからって、どうなるもんでもないんだよねー。どうせ、よく分かんない投資の話とか切り出されるだろうなー。うー、なんで断らなかったんだろう。ローンと学費、2つに目処が立てば会社辞めるよ、ほんと。それができないから、会社にしがみついて、頑張って金稼いでるんじゃん。あ、でも、ファイナンシャルプランナーとか書いてあったっけ。去年、ボーナスカットされたんだよなー。今年も貰えるか分かんないし、ボーナスが無くてもやっていけるかどうか、聞いてみようなかなあ。自分のこと、金づるとか言っておいて、今更ローンも学費も払えませんとか言えないしなあ。去年はごまかせたけど、今年もボーナスが無いなら、やっぱり千魚には言っておいた方がいいんだろうなー」

カウンター越しに人がやって来る気配がして、益次郎は結論の無い思考を中断し、肘掛けに腕を押し付けて立ち上がった。
「ファイナンシャルプランナーの小鯛(こだい)と申します!相談会にお越しくださり、ありがとうございます!」
さっきの女子行員が名刺を差し出していた。「へっ?」と益次郎が怪訝な顔をすると、
「どうかなさいましたか?」
と、やはり笑顔を向けた。


「いや、あの、もう少し年配の…年上の方がいらっしゃると思っていたので…」
「なるほど、なるほど。ご安心ください。もちろん実体験として結婚もしていませんし、家も買ったことはありません。でも、きちんと勉強して、資格を取った、正真正銘、プロの、ファイナンシャルプランナーです。お任せください!」
小鯛さんは自信満々に答え、抱えていたファイルを横の机に置いて着席すると、
「それでは早速ですが、相談会を始めさせていただきますね。今日はどういったご用件で当行に?」
と、切り出した。
「今日は給料日なんです。いつも給料が入ると、生活費口座とか定期預金とかに移動するので」
「なるほど、なるほど。いつもご利用ありがとうございます!では、当行に口座をお持ちということですね。今日は通帳をお持ちでしょうか?」
「持ってますよ。口座は3つあります。給与が振り込まれる入金用の口座と生活費口座、それに学費やマンションのローンの貯金をしている定期預金の口座」
と答えると、益次郎は鞄から3冊の通帳を取り出した。
「素晴らしいですね!家計の収支や貯蓄を分かりやすくするためにも、口座を分散するのは最適です!拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」
久しぶりに人から褒められて、悪い気持ちはしなかった。小鯛さんは3冊の通帳を受け取ると、両脇のパソコンに口座番号を入力し、通帳と画面を交互に見ていった。
「なるほど、なるほど。ところで、今、1番気になっていることって、何でしょうか?あ、もちろん、生活費とか老後の資金とかの部分でお願いします」
それはそうだろう、お昼ごはんの相談をするつもりは無い。
「やっぱり子供の教育費ですね。2人の娘が大学を卒業するまでの教育費は出してあげたいと思っています。今のペースで生活をしていって、教育費の心配が無いことを確認したいですね」
「なるほど、なるほど。娘さんが2人いらっしゃるんですね。あ、そうか!そういえば、まだご家族のことをお伺いしてませんでしたよね」
大丈夫かな、この人で、と思わせる言動が小鯛さんにはあった。それでも嫌な感じがしないのは、やはり笑顔が作られたものではないからであろう。小鯛さんはファイルから書類を取り出すと、益次郎の手元に置いた。

「こちらにご記入をお願いできますか?」
手に取って見てみると、家族構成、収入と支出、貯金額が空欄になっていた。けっこう細かい。すべての空欄を埋めないといけないのか聞きたくて益次郎が顔を上げると、小鯛さんがにっこりとペンを差し出した。質問をしそびれてしまった。仕方なく家族構成から書き始め、収入の欄を埋めようと思って早速に手が止まった。少し迷って記入した。

◆収入
・給与(夫・月額手取り)30万円
・給与(妻・月額手取り)0円
-------------------
・月額合計 30万円

・ボーナス(夫・年間手取り)0万円
・ボーナス(妻・年間手取り)0万円
-------------------
・ボーナス合計 0万円

益次郎は千魚の収入を知らなかった。千魚が自分の扶養家族ではないことは分かっていた。毎年、会社の総務部に家族状況を知らせる書類を提出しなければならず、千魚に聞くと「年収が130万円以上あるから、私は扶養じゃないよ」と、いつも言われていた。

その言葉を参考に、妻の手取りの欄に、だいたいで月額10万円と書いても良かったけれど、金づる男としては自分の収入と貯金だけで衣食住が成り立ち、教育費に心配がないというお墨付きが欲しかった。
「あの…」
「はい」
「分からない項目がけっこうあるんですね。ざっくりと書きますので、ざっくりと相談に乗ってもらうことってできますか?」
「なるほど、なるほど。ざっくりと、ですか。分かりました!」
またもや自信満々の答えが返ってきた。

益次郎は、自分が分かる範囲で記入すると、小鯛さんに渡した。小鯛さんは「ありがとうございます。拝見させていただきます」と言って受け取ると、家族構成から始まる丸裸の生活を見ていった。

益次郎が小鯛さん越しに柱の時計を見ると、12時を過ぎていた。朝ごはんを食べて1時間くらいしか経っていないのに、お腹が空いていた。お腹も、自尊心も早く満たしたかった。

<続く>


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