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『飯炊き女と金づる男』 #2 金づる男って言われても

次女のイワナは、飯炊き女にリクエストしたホットサンドの最後の一口を口に放り込むと、ごちそうさまと手を合わせ、お皿をシンクに下げて部屋に入った。学校に行く前に部屋の掃除を片付けてしまうつもりなのだろう。見計らったかのように、長女のヤマメが声を落として千魚(ちか)に訊ねた。

「金づる男って、どういうこと?」
「あー、聞こえてたんだ」
「うん。でも、全部じゃない。喧嘩でもしたの?」

千魚は一昨日の夜を忠実に思い出してみた。
「うーん。まず、洗濯機が止まったんだよね。で、干すかーって声に出したのかなあ…自分でも声が出のか、心の声だったのか分からないんだけど。そして、のびをした。うーんって。そしたらね…」
「そしたら?」

「千魚はさ、自分のことを飯炊き女って言うけどさ、だったら……だったらさ、僕は金づる男だよね。これからは金づる男って言うから!」

2LDKに4人暮らし。窮屈な空間になるのは嫌だった。リビングにはテーブルやソファを置かずにビーズクッションを3つ、場所を決めずに置いていた。そのうちの1つに乗っかり、熊猫のように丸まっていた夫の益次郎が声を上げた。

千魚は起き上がるタイミングをくじかれた。先に立ち上がった益次郎が、千魚の目の前を右から左に横切り、洗濯機のある脱衣所に向かった。洗濯かごを抱えた益次郎が、こんどは千魚の左から右へと横切った。

ビーズクッションにやさしく包まれていたからではなく、千魚はまだ起き上がれずにいた。ベランダに続く引き戸がぴしゃりと閉まる音で千魚は我に返った。

金づる男って、何?金づるって、お金を出してくれる人っていう意味だっけ?いや、ちょっと違う。もっと相手を見下すニュアンスが含まれる気がする。

お金を得るための道具、お金もらって当然みたいな。私が益次郎のことを、お金のための道具として見ていると言いたいのだろうか?しかし、なぜ、このタイミングで?

確かに毎月、生活費は振り込んでもらっている。でも、一応、私も働いているし。私の収入が低いから、金銭的に益次郎の方が負担が大きいとしてもだ、自分を金づると自信満々に言うほどの金額はもらっていない。そんなに贅沢はさせてもらってないんだけど。

千魚の考えがまとまらないうちに、洗濯物を干し終えた益次郎がベランダから戻ってきた。千魚は顔を見上げた。怒ってはいない、と思う。益次郎の感情は分かりやすい。くっきりと深い二重瞼と大きな目が口ほどにものを言うのだ。怒っているときは、目が見開き二重の幅が狭くなる。今は普通だ。

それでも千魚は、何か続きを言われるのかと待ち構えていた。脱衣所から戻ってきた益次郎は、何も言わずにキッチンに消えた。

水がコップに注がれ、紙袋が開く音がした。薬を飲むのかと千魚は体の緊張を緩めた。案の定、益次郎は通り過ぎざまに「おやすみ」とだけ言って、寝室に入っていった。千魚は寝室のドアに向かって「おやすみ」と返した。

「それだけ?」
「それだけ」
「分からないね」
「分からないのよ」
千魚は、分からないことは考えない。
「私、大学受験止めた方がいいのかな?奨学金かな?」
ヤマメは、分からないことも考える。
「大丈夫よー。そんな深刻に受け止めないで。ジロさん、また不安定になっているのかもしれないね。ヤマメは気にしなくていいから。歯磨きしておいで」

ヤマメがテーブルに残っていたお皿をキッチンに下げ、歯磨きをしに洗面所に行くと、千魚はようやく立ち上がった。三度の食事のメニューを考えるだけで精一杯なのに、予測不能な変化が日常に入り込むのはつらかった。益次郎が家にいるようになってからもうすぐ1年が経つ。

「行ってらっしゃい!楽しんでね!」
千魚はいつもと同じ言葉で2人を送り出した。ヤマメが保育園から小学校に上がり、初めて送り出した日から、彼女の高校受験の日も、次女のイワナが苦手な運動会の日も、千魚はそう言って毎日2人の娘を家から送り出してきた。ヤマメとイワナは一度だけ振り返って千魚を見る。そして手を振って歩き出した。

玄関のドアの鍵をかけると、千魚は一人の時間が始まることに安堵した。お茶でも飲もうかと思ったけれど、益次郎が起き出して顔を合わせたくはなかった。まだ益次郎が眠っている寝室に入り、静かにクローゼットを開けた。

黒のコートを取り出そうとして、振り返って窓越しに外を見た。相変わらず、天気は良い。み空色のコートを手に取り、クリーニングのビニールカバーを破り捨てた。鏡を見て唇にグロスを足すと、家を跳び出した。

<続く>

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