『飯炊き女と金づる男』 #8 思い出のすれ違い
益次郎が駅へと続くゆるい坂道を上っていると、福龍飯店のバイクとすれ違った。ホンダのスーパーカブ。マンションの管理人が頼んだ出前だろう。紅く塗装されたレッグシールドに白抜きの文字。
飲食店への休業要請が長期化し、落胆とやるせなさが毎日伝えられている中、変わらぬ出で立ちで走り回っている。出前の注文は増えているのだろう、見かける機会が増えていた。
益次郎と千魚(ちか)の夫婦がこの地に住み着いたのは、もうすぐ高校3年生になるヤマメが、羊水の中で泳いでいる頃だった。駅前には個人経営のお店が連なり、小さな商店街が作られていたけれど、翌年、鉄道会社が再開発に着手すると、あっけなく消滅した。
3年かけて出来上がったショッピングセンターは、駅前の風景を、わりとよく見かけるものに描き替えてしまった。福龍飯店と八百屋の八百吉が隣り合う、日が当たらなくなった一角だけが、かつての面影を残していた。
紅色の店舗テントにすすけた白い暖簾が、いかにも町中華という雰囲気で、引っ越してきた当初から益次郎には気になる存在だった。このお店に行く時は、町に溶け込んだ時と決めていた。もったいぶって行動しないのは、今も昔も変わっていない。
その間、駅前に追随するかのように、一軒家が次々と取り壊されてマンションになり、空き地は遊具の無い公園へと姿を変えていった。溶け込むよりも変化するスピードが速く、機会を逸していた。
ヤマメの誕生から4年後、次女のイワナが産まれた。その日、益次郎は千魚から入院の知らせを受けると、手筈通りにヤマメを保育園から引き取り、産婦人科に駆け付けた。着いた時にはすでにイワナは産まれていた。
病院からの帰りに八百吉の前を通りかかると、ヤマメが店の主人に手を振って「こんばんは」と声をかけた。
「おや、ヤマメちゃん。この時間に珍しいね。今日はお父さんとお出かけだったのかい?」
「うん。妹がね、産まれたんだよ」
「えぇ、そりゃ、おめでとうだね。そうだ、ちょっと待ってな」
八百吉の主人は、売り物のイチゴを2つ抜き取り、
「お祝いだよ、お父さんの分も」
と、紙袋に入れて渡してくれた。益次郎は、「ジロウさん、もらったよ」と笑顔で言うヤマメに驚きつつ、八百吉の主人にお礼を言った。
聞くと、ヤマメの通っている保育園が、散歩帰りに給食の買い物に立ち寄るらしかった。年中と年長の園児は、荷物運びの手伝いをしていて仲良くなったと言う。小規模な保育園なので給食が手作りなのがありがたいと千魚が言っていたのを思い出した。
益次郎は、自分が知らぬ間にヤマメが地元に溶け込んでいることを嬉しく思った。あぁ、今がその時かと感じ取った益次郎は、ヤマメに「ご飯、食べて行こうか」と言い、福龍飯店の暖簾をくぐった。
油っぽく、くすんだ、大人ばかりの店内。赤ら顔の男たちの声。たばこの煙。「炒飯、上がったよ!」と、大きな声が厨房から響き、ヤマメはビクッとした。店に入るなり、岩場があったら隠れたくなった。
益次郎は4人がけのテーブル席に、ヤマメと向かい合わせで座ると、壁の全面を埋め尽くしているメニューを見回した。
「いっぱいメニューがあるねー。ヤマメ、食べたいものある?」
意気揚々とヤマメに聞くが、反応は無かった。
「好きなもの食べていいんだよ」
と促しても、首をかしげるばかりだった。
益次郎は「遠慮しなくてもいいのに」と思いつつ、ヤマメの好きそうなものを注文するかと思い、すぐに困惑した。メニューの数が多いからではない。ヤマメの好きなものが分からなかった。
ご飯か?麺か?分からなかった。魚と肉なら、肉だろう。でも、牛と豚と鶏ならどれが好きなんだ?分からなかった。しょうゆか?塩か?分からないことだらけで、焦り始めた。ヤマメの目が泳いでいることに気付く余裕は無くなっていた。
とりあえず、これを注文しておけば大丈夫だろうと、しょうゆラーメンと炒飯のセットを頼んだ。野菜が無いなと思い、黒酢の酢豚を追加した。4歳の女の子にはラーメンの半分も食べ切れず、益次郎が腹いっぱいになって平らげた。
「おいしい?」
と聞くと、
「おいしいよ」
と答えた。その答えこそ、益次郎が聞きたかった言葉だった。お店もメニューも自分の選択をヤマメが気に入ってくれた。そう受け取って、益次郎は満足だった。
後日、出産入院から戻った千魚に「ヤマメと2人で福龍飯店に行ったらね、おいしかった!って、言ってたよ」と嬉しそうに報告した。千魚には違和感しかなく「ヤマメ、頑張ってたんだ。いっぱい褒めてあげよう」と思った。
イワナと出会い、ヤマメと2人きりで食事をした特別な日の記憶は、福龍飯店のバイクを見ると呼び起こされる。目にする機会が増えたことで、頻繁に思い出され「ヤマメも気に入ってたし、4人で食べに行きたいね」などと口に出すことが多くなった。
ヤマメは福龍飯店に行ったことを覚えていなかった。益次郎がその話をするたびに、申し訳ない気持ちになった。直近、夕飯の時に繰り返しの話がされると、益次郎が風呂に入ったのを確認して、千魚に聞いてみた。
「ねぇ、私って、そんなに気に入ってたのかなあ?」
「福龍飯店のこと?うーん、イワナが産まれた日のことは分からないけど、特別って感じではなかったと思うよ。行きたい!とか食べたい!とか言われたこと無いし。実際に行ってないし。出前も1回か2回かくらいしかお願いしてないしね」
「そう、だよねえ……でも、さ、明日のお昼、出前取らない?お金だったら、お小遣いから半分出すよ」
「どしたの、急に?ラーメン食べたいの?」
「私、覚えてなくて。ジロウさんの話聞くと、なんか、ごめんって思っちゃうんだよね」
「そんなの仕方ないよー。だって、4歳のときだよ。気にしないで。このまま放っておいていいんじゃないかなー」
イワナが口を挟んできた。
「そうだよ、放っておいていいよ。お店に行くんだったら、パスタがいいよ」
ヤマメは奔放な発言にムッとして、イワナを睨みつけた。
「ほら、こういう人もいるからねー。思い出ってさ、そのままそっとしておいた方がいいこともあるんだよねー」
虚空を見つめながら、千魚が言った。ヤマメには分からなかった。
「4人がラーメン食べたいって思う時があれば、行けばいいんじゃない。ヤマメは行くんだったら、どこに行きたい?」
「私は……うどん…」
「でしょ。4人の意思が揃う時が来るまでは、思い出の中にいてもらおうよ。思い出があるだけで十分なんだと思うよ」
千魚はヤマメの目を見てそう言うと、両手を広げた。吸い寄せられるようにヤマメは抱き着いた。自分よりも背が小さい人の、大きな懐はいつも気持ちがいい。
「ヤマメは優しいね」
益次郎に言われたら反撥しか起きないだろう言葉も、千魚に言われると子供の頃のように嬉しくなる。
「イワナも!」
イワナが千魚に抱き着いた。
「お寿司かなあ。ウニが入ってるやつ」
おどけたように、千魚が言った。
「えー、ずるいよー。高いじゃん!」
「イワナもお寿司にするー」
しばらく3人は食べたい料理やテレビで見たお店、ネットで評判のお店について話し、笑い合った。
そんな会話がある夜になされていたことを、益次郎は知る由も無い。4歳のヤマメを思い出し、にやけながら坂道を上りきった。信号を待つ間、今日は福龍飯店でお昼ごはんを食べようかとも思ったけれど、すぐに打ち消した。
4人で行こうと約束したのだ。1人で行ってはみんなに申し訳ない。それに、2週間続いたお昼のカレーがやっと終わったのだ。久しぶりにスパイス以外の味が食べたい気分だった。
<続く>
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