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シーラカンス(短編小説『ミスチルが聴こえる』)



 僕の心には、シーラカンスが眠っている。深く、深く、音も匂いもしない、真っ暗な世界で、彼はスイスイと優雅に泳ぐ。何にも囚われることもなく、縛られることもなく。
 
 彼は時折、僕を誘ってくる。社会は辛いだろう? 一緒に沈まないか?
 
 彼の誘いは、うつ病を患った過去を持つ僕にとって、とても魅力的なものだった。彼の言う「沈む」は、厭世的な思考を持つ僕を壊し、何もかも解放して自由になることを意味する。人間関係も、自分のスキルも、お金も、将来も、全部捨てて、僕はただの深海魚に生まれ変わる。寿命が来るまで、ずっと泳ぐ。何も考えず。
 
 ただ、一人の女性が僕を止めてしまう。彼女は、言うなれば「鳥」だった。大空を飛ぶように、縦横無尽に動き回るパワフルで、エネルギッシュな人。それはまさに、僕が求める人間としての在り方に近い。
 
 シーラカンス。君はまだそこに眠っているのだろうけど、僕はそこへは行かない。僕は空へ行く。そして彼女と飛ぶ。
 
 彼は何も言わず、僕の心をグルグルと泳ぐだけだった。生きているのかも定かじゃない。だけど、シーラカンスは静かに存在している。
 

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