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【2012年の記事より】ずっともう現場は崩壊している話だけを聞かされてきた

【2012年の記事より】


2012年、というと、10年ほど前。
文章を見返してみると、僕はすでに、この頃から、今(2022)を見据え、警鐘を鳴らしてきていることがわかりますね。

もちろん、この10年が全く同じというわけではなく、
社会と子どもたちのさらなる変化に呼応して、問題点や課題、すべきことを書いてきています。

それと、2012年ごろは、まだ、今よりも学校の管理統制強制、大量の課題宿題の傾向は、ゆるい、です。

学級崩壊という言葉もよく使用されていました。崩壊はすでにここで始まり、この後、スキルがないために、指示命令強制という勘違いした手法で、子どもたちを統率する現場が増えていくことになります。

ここから何段階か変化を経て今に至っています。

この当時と比べても、今、子どもたちは大きく異なった特性を持っている。

改めて、今、できることに取り組む必要があるのです。


以下、記事を転載します。

-2012年4月のブログ記事より-
タイトル「ずっともう現場は崩壊している話だけを聞かされてきた」

僕はもうずいぶんと前から、ある一定の幅で社会が進んでしまった地域では、
修練不足の講師が仕切る場およびどこに向かうかが共有されていない教育の場は、
まったく成り立たなくなると言い続けています。

アルバイトを全否定するわけではないですが、
アルバイトであればよっぽどの研修制度を持っているところ以外は成り立たないですし、
その研修制度を持つためには正規の講師が「場を成り立たせる強い意志、もしくはビジョン」と持てていなければできないことです。

同時に、多くのベテラン講師にはもうすでに現代の子達を導くためのビジョンが持てない時代に入ったと見ています。

都市部および受験が成立している地域、もしくは社会の流れの遅れている(少し前の日本の日本的思想が守られている地方など)地域の話ではありません。全国を回っていると、都市部と古き良き共同体が日本人的思想とともに残っている地域では、まだ瓦解は起こっていないところも見ています。

何度も書きますが、ここでの話は、受験戦争なるものがそもそも(都会の人間が思うほどには)存在しなかった地域であり、地方でありながら適切に現代社会の情報が流通している適度に都市化した地方の話です。

修練不足とヴィジョン不足の教育の場は、求められているレベルを考えるとすでに崩壊しています。
ベテランだから、も全く通じません。
いや、むしろ邪魔になるとさえ思える。
そういう教育の瓦解。

僕のみている地方は、全国各地を回った実感からして経験的に、
より進化の進んだ地域ですし、今後、この流れを迎える地方が増えてくると考えています。

残念ながら、フランチャイズ系のところはおおよそ、相当に場が荒れて来ています。
これは、単に確固としたカリキュラムを提示するだけでは(つまりそれはビジョンでも何でもないのだから)場は成り立たないということです。
学校もそうですが、今の現場の問題は、カリキュラムにはない。
今回の指導要綱でいえば、教科書改訂は(別の側面からは必要でしょうけれども)、アプローチでいえばカリキュラムを改善したということに過ぎないわけですから、本質的な問題解決にはなりえません。

学校が荒れ、頼りである民間の教育の場までが壊れてしまうと、「それでいい子」達が増えていきます。
これは大問題です。それでいい子、というのは、「どこへ行ってもそのままの振る舞い方」が許される子です。
自己満足や我欲だけを「個性」と勘違いし、取引的ないわゆる消費行動で勉強を続けていく。
とてもではないですが、これからの社会でテーマになるであろう「共同体」など築けるはずがない。

そうした「それでいい子」達が、「あるがまま」でいいという言葉を取り違え、
「そのまま」の自分で生きていく。社会が成り立たなくなるという失望感・危機感以外に何を抱けばいいのか。

ビジネスの世界は、その体質ゆえに、時代を読むということに敏感な世界です。
多くのビジネス論では今、子ども達はより創造的な未来に向かっている、
新しい世代の子達が新しい世界を生み出そうとしていると論じています。

けれども、単に楽観視できない。

子ども達の深層心理を分析し、その結果すばらしい世界観や価値観を持っているとでもいうような発想を持っているビジネスマンはごまんといるでしょう。僕もそれについては多く勉強して来ていますし、実際に希望ももっています。

けれど、教育者的に発想するならば、
あるがままだとか個性だとか新しい感性だとか言った言葉はとり間違えると危ない。
やはり楽観視ができない面を多分に含んでいるのです。

誤解をおそれずにいえば、子ども達は自然に放っておいて育つのではないということでもあります。
勝手に、それこそ自由気ままに生きていけば、子ども達自身の自我はしっかりと育ち、自立へ向かうというのであれば、教育が存在する理由がない。
なぜ教育そのものが存在しているかに立ち返れば、放任主義が教育の主眼ではないということはわかるはずです。

いずれにせよ、公も民も、教育の場が崩れ始めています。
このまま大きくなった子達にはいずれツケを払う日が来てしまうという意味ではすでに崩壊していると僕自身は見ています。

周囲の現場が崩れていくことの悲しみは深いものです。
僕らは最後の砦のようになってしまっているという現実は、喜べる現実ではないからです。

カリキュラムや仕組み、それこそテキストや勉強の内容そのものさえよければ、子ども達の教育は成立しうるという幻想は、道徳観や思想なき現状では通用しない。

周囲のフランチャイズの崩れる音が多く聞こえて来たのは、そういう原因を内在していることに気づかなかったからです。また気づいていてもヴィジョンがなかった。
せめてその場の対応策があれば違った。
ただもうそれすら「わからない」、打つ手がなくなってきているのです。

こうした状況の中、修練を積まない講師で子ども達を導けると自信を持っていえますか。

カリキュラムや仕組み、「提供するコンテンツ」がしっかりしているというだけで、子ども達の現況に対処できるといえますか?

子どもの性質をよく知るベテランの講師ですら、手のうちようがない(もしくは軍隊式一辺倒でやれているつもりになる)状況で、成り立つ場を、修練とビジョンのない場所で対応できるといえますか。

ただこのまま、成立していない場の中で学び続けることは、子ども達にとってマイナスにしかならない。
「そのまま」でいい子達は、これでも許されるということを続けるだけ。

その状況を目にして、社会はどこに向かっているのか、希望を持って発言できる人がいますか?

地域、地方の教育の現場は今、かつて感じたことのないほどの危機感を抱くに至っているのです。

ともかく、ひたすらにカリキュラムだけで制御しようという場所やヴィジョンを持たない場所では太刀打ちできない。

以前も指摘しましたが、facebookでどこかの先生がコメントされていました。

それはこうです。

「学校では集団のような授業は成り立っていないので、塾も同じだろうと考えられて、塾に来てくれなくなった」と。

地域のあらゆる場所で崩壊が繰り返されることは、たとえ僕らの場所が特別な形で成り立っているとしても、もうそれも理解されることが難しくなるかもしれない。

僕らにヴィジョンがある、手法があるといっても、それすら理解されなくなるかもしれない。

悲しい現実をさらに突きつけられている気がしています。

最近はもう「○○に通っていたけど、しゃべっていても注意されなかった」と言って、ここに移って来た子に会ってもうれしくないのです。


「なぜしゃべったらいけないのか」だとか「なぜ立ち歩いたらいけないのか」を不思議に思う子が大量に育っている。
ほとんど今これを読んでいらっしゃる大人のあなたでは理解の範囲を超えてしまうはずです。意味がわからないと。
子ども達にも意味がわからないのです、なぜ注意されるのか、なぜ話したらいけないのか、立ち歩いたらいけないのか。

こうして確実に同じような民間の場が壊れていくのを見せつけられて、嬉しいはずなどありません。

なぜなら、子どもという同じ存在を育てている意味で、僕らは皆仲間であり、同じ共同体にすら属していると僕は思っているから。

その意味で学校も同じ(だが先述の通り、僕の知る範囲の学校は僕の求めるレベルでいえばすでに崩壊している)。
たとえ別々の場所で別々の子であったとして、子どもという同じ存在を育てているという自覚と責任において、僕にとってはすべての場がつながっている。

そのつながりを感じる中で責任感も危機感も日々増していく。

「隗(かい)より始めよ」それをずっとやって来た。
理論と実践を伴わせ、結果を出して来ました。

気づかないまま公は「そのままの公」で来た、その責任は重いのです。

国単位でなく、地方単位、現場単位でもあってもです。

ツケを払うのは、大人だけなく、いずれ来る社会を生きる子ども達であることも忘れてはならないのです。

僕は僕にとっての「隗」をただひたすらに実行し続ける。

ブロックは一つずつしか積めず、苗は一本ずつしか植えられない。
劇的な改革というものは本来教育にはない(そもそも惰性の強いものでなければならない)。
ただそれでも一本なら植えられる、一個なら積める。

その一本が何なのか、公も民も、皆が真剣に考えねばならない。
そういうときに僕は今、来ているのだと感じています。

(おわり 2012年4月のブログより)



2011年頃の写真




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