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【2012年のその2】「学びの本質と新しい社会からの要請」

【2012年のその2】
ついでにもう一つ過去記事を転載します。

社会の流れは早い、現代の子どもたちの変化もそう、
しかし、本質は変わらない。そういうことを。

今に至る未来へのアプローチを書いていることがうかがえます。

なお、記事中に出てくる連載は、今もなお続いている教育連載「勉強が未来を創る」です。


2012年4月の記事より転載
タイトル「学びの本質と新しい社会からの要請」


僕の見ている子達は、中学校だけで、少なく見積もって20校はあろう。
小学を入れると何倍かになる。
そういう各エリアの子ども達を講師として実際の「現場」で見続けている。
県内では特に主要な町に教室がある。

子ども達の本音とすばらしい姿(もちろんそうでない姿も)をよく知っている。

授業崩壊ばかりが突きつけられる地域の現状にあって、
不思議に思われるかもしれないが僕の授業では皆、素直に勉強してくれている。

もはや講師としてはシーラカンス的な絶滅危惧種的なレアな存在なのかもしれないが、県内であまりに多くのエリアをカバーしているために、その責任の重さを感じずにはいられない。

ほっぷさんの連載では、いよいよ本格的に学びと教育の話を進めていくことになった。
技術的なこと、学習的なことはある意味簡単ではある。受けもいいだろう。

だが、それ以上に、深刻なのは地域の子ども達の成長について、学びについての問題である。
それをさけて通るわけにはいかない。

今週の記事でそこに「消費行動」というメルクマークを与えた。
まずは学び元来の意義と性質と現状の学びの受け取り方の差異を書いていくつもりだ。
(月一なので次は来月をお待ちください)

少し未来へと飛躍するが、学びの本質的動向と現状の学び手には大きな乖離がある。

その乖離を、過去の価値観の一方的な押しつけではなく、
近代社会のよい箇所や働きかけ、さらには今から迎えようとする社会からの要請を考量しようという思考を提供したい。

理論や哲学的はたらきかけは確かに必要ですばらしいものなのだが、
なにせ現状を動かすインパクトに欠ける。
リアリティといえばいいだろうか。

現場で実際に汗を流し、かつ学び手自身(つまり子ども達)から、
生の声と温度を受け取る身からすれば、
現場を動かせるにつながりうる具体的思考と手法がどうしてもほしいのである。

近代社会とその成立が投げかけてくる問い、
もしくはメタルールのようなものと向き合いながらも、
実社会のコンセンサスを得られないかという、二律背反に思えるような試みをもって、
なお皆様にお伝せんとしようという試みでもある。

おおよそ私たちはその合理主義的社会において、物事を二項対立的にとらえる傾向を持ち得た。

長い歴史の中で組み上げられた学びに対する価値観(または洞察)と現在の近代人がそれと対比するととり間違えているとされる学びに対する価値観も同じである。

昔的な学びと今の学びは、質が変化している。

だが先生という生き物はいつの時代からもあまり変化してゆかないないので、実際現場におられる先生方には、このことがよくお分かりになるだろう。(その一つのカギを握るのが先述した消費行動であるがこれはここでは省略)。

長くなったがつまり、過去の学びと現代の学びは相反するものとして捉えられているのである。

ここでこの二項対立にとらわれてしまっては、実際の現場を修正する、
もしくは、緊急回避的に下げ止めさせる、ことができなくなる。

考えてみてほしい。

頑固親父が"げんこつ"は絶対に続けます!と宣言したところで、今それに賛同してくれる(もしくは嫌々でもその条件をのんでくれる)人はいない。
逃げ出すか消費者として絶対的権限を主張した上で、なんらかの回避行動をとるに至る。
そうすると現場は、頑固親父のげんこつでは動かない。
それが現場が下降しながらも体質的には硬直し続けている理由である。

ゆえに、僕はここで現場の、二項対立ではない別の手法を問う。

過去の学びの本質と現代の学び手とのコンセンサスをとり、同時に未来の社会からの要請をも加味しながら、
新しい形態を模索しようという試みである。
(その色合い的傾向から見てあえて「試み」と書くが、すでに現場で実践し結果を出していることであるので、すでに取り組み続けていることではある。)

ところで、新しい形態と書くと、
どうしてもこの「新しい」という言葉が語弊を生むかもしれないので付け加えておこう。

教育は所詮惰性が強く(悪いという意味ではない。それ自体必要善であろう)、新規開店を好まない。
明日からの急激な変化を「短期的に」「繰り返す」ということが、教育のすばらしい形ではないことは想像に難くないはずである。
だが社会は違う。
社会は新しい大人を産み落とそうとせんばかりにその変革を迫っている。

新しいというのは、ここでは未来の「新しい明日」を指す。

実際のところ、学術的な書にもいまだ、未来の新しい明日(新しい社会)の想定が含まれていないものが多い。
すばらしい文献はいくらもあるのだが、目を通すとどうしてもそれ自体、古い。新しい明日から私たちが何を要求されるのか、未来からの要請が欠けてしまっているのである(これは同時に現場の切実感の欠如とも見える。現場と理論の乖離である)。

新しい形態とは、二項対立の図式ではなく、学びの原点的本質と新しい明日からの要請のアウフヘーベンである。

それを持って、まずは現実を動かす。

緊急手段なのかもしれないがそれでもあえて、現実崩壊のシナリオを待つわけにはいかないのだ。

それを、実践しつつある身として、皆様にお伝えしていきたい。

地域の未来崩壊は刻一刻と迫っている。

いくら惰性が強くなければならない教育であったとしても、
崩壊のシナリオをこのまま傍観しているわけにはいかない。
そういう切実さがある。

大阪では留年論なども出ているが、もし今の子達が留年をすれば、1年繰り下がるどころの話ではない。
たとえば中1の子達は最低でも数学年前から、学習をやり直さなければならない。

というか同じことを同じように、再び行うだけでは実は無駄になる可能性が高いので、
より学びの効果性の高いと思われる別の手を持って学習をやり直さねばならない。

それほどに学力も教え手も危機的状況なのだ。

これは学力ばかりの問題ではない。

ここでいう学力とは学習というある程度、度量衡で量れるものであろう。
たしかに学力は悲劇的に落ちて込んでいる。

しかしそればかりが問題ではない。

それ以外の、人間的、もしくは社会人格的な問題を大きく含んでいるのである。

まずはその現状をみなさまにお話ししたい。
まちづくりと教育に興味がある方には是非。

夜中はヒマなので。

いずれにせよ抱える問いは、地方独特である難しさも含め、
社会に生きる大人が傍観者に回っていては皆が不幸になりうる大きなものである。

現実的な声と具体的施策がもたらされない限り改善はない。


(おわり)2012年4月ブログ記事より

2011年ごろの写真






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