「Amazonギフト券」から考えるプレゼントと手軽さ
先日、ファミリーマートへ行った時の話だ。
入口の自動ドアから入って、いつものように栄養ドリンクコーナーを視界に入れて、雑誌の棚に沿って進み、奥の飲料コーナーへ行こうとしたときだった。
栄養ドリンクコーナーの対面にはi tunesカードやAmazonギフト券が売られていた。コンビニでこれらが売られていることはもはや当たり前だ。しかし、私の目に飛び込んできたのは普通のAmazonギフト券とは別に、プレゼントに使える特装版のアマゾンカードだった。
例のAmazonの「口」がニヤッとしている。この笑みはネット通販会の王者だからこそできる笑みなのだろうか。
確かに、普通のプリペイドカードを渡すのは気が引ける。現金を渡すよりはマシだとしても、よほど仲が良いかフランクな仲でないと、裸のアマゾンカードはプレゼントとしては寂しく感じてしまう。
しかし、このギフト用の特装版なら大丈夫だ。もギフトとしての様態をしているため、これをそのまま渡しても大丈夫だ。
そもそもギフト券とは不思議な存在だと以前から思っていた。
例えば1万円分のギフトカードがあったとしよう。
使えるお店や相手は限定されるものの、使えるところではその同じ額の現金と変わりない価値を持つ。とすると、同じ額の現金を渡していることとあまり変わりはないのではないだろうか。
だが、お年玉やお小遣いのように、プレゼントとして「現金」を渡すかと言えばそうではない。主にはそういったやり取りは身内でのみ行われる。いくら華美に、丁寧に包装したとしても、「現金」がプレゼントに用いられることはまずない。
それではあまりにも生々しいからだ。お金は封筒に包んだり、財布に入れるモノという認識からも、大っぴらに見せるものではないということが窺える。現金を配るのはZOZOの前澤社長くらいであろうか。
また、プレゼントに現金を渡すという行為からは、「相手のことをよく考える」というプロセスが抜け落ちている。「贈り物は気持ちが大切」とはよく言われたものだ。
実際に私も自分の親に怒った記憶がある。小学生の頃までは、私の家では毎年クリスマスの日に親がサンタとなり、枕元にプレゼントを用意してくれていた。しかし、6年生のクリスマスの日、枕元に置かれていたのは封筒に入った3000円だけだった。小学生の私は親に怒った。なぜ、いつものようにゲームや玩具ではないのかと。すると、親は「高学年になり、何が欲しいのかわからなかったから」と答えた。
確かに現金であれ、プレゼントをくれたことには感謝している。しかし、小学生の私が親に怒ったのはおそらく「子どもの欲しい物をよく考えずに、現金という最も汎用性の高いアイテムで済ました態度」であったのだろうと今になって思う。
このようにやはり「現金」はプレゼントには向いていないのではないかと思う。
そこに登場するのが「ギフト券」の類だ。ギフト券は場所は限定されるものの、現金とほぼ同じ価値を持つ。加えて、現金よりも生々しさがかなり低減されている。現金と同額の価値を持つが現金ではない。これがギフト券の持つ最大の魅力なのである。よって、ギフト券はプレゼントに選ばれる。
話は戻るが、Amazonギフト券を見て私が思ったことは、コンビニで「プレゼントすら買える」時代になったということだ。
確かに何でもコンビニで買える時代である。各種払い込みや住民票を取ることもできる。
ただ、誰かのプレゼントをコンビニで用意しようと思う人は少ないはずだ。コンビニはあくまで生活必需品や生活関連のアイテムを揃えているだけで、相手に響く特別なモノは用意し難いからだ。
だが、Amazonギフト券ならば、そのプレゼントに十分なりうる。 Amazonギフト券は手軽に買えて、かつ相手の自由に使えるという点で、魅力的だ。確かにさほど親しくない相手や、相手の好みがわかりにくい場合にAmazonギフト券は力を発揮する。もらった側の使用の自由度が高く、かつ、贈った側に「贈り物をした」という事実を作ることができる。
ただし、誰にでもAmazonギフト券をあげるのはどうかと思う。確かに選ぶ手間や失敗からは解放されるが、逆に当たり障りのない特別感のないプレゼントになる。ギフト券を贈る時は相手のことや好み、関係性がかなり重要になると思われる。安易なギフト券の贈与は失望を生みかねない。そういった場合に得をするのはAmazonだけだ。
「ギフト券」との付き合いには注意が必要だろう。
プレゼントにまで「手軽さ」が入りこんでしまった。
頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)