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誕生日らへんの雑記

昨日、誕生日だったので一つ歳をとった。26歳になった。何というか、自分でも驚くほど何の感情も無い。周りの人は「おめでとう」と言ってくれて、その気持ち自体には感謝するのだが、何がどうおめでたいのかが自分ではイマイチよくわからない。

昔は誕生日と言えば誕生日プレゼントをもらえたり、ケーキが食べられたり、一桁だった年齢が二桁になったり、ハタチになったりとイベント性がかなり高かった。年に一度の誕生日を待ち侘び、数日前からソワソワした。t楽しみなイベントでしかなかった。

けれども、今は誕生日や自分の年齢に対して本当に何とも思わない。ただ、機械的に歳をとるだけだ。いや、強いて言うならばポジティブな感情を抱くことはないと言うところか。多くの女性のように歳をとること自体に忌避感を感じることはない。見た目より若く見られたいなどという気持ちもない。

ただ、自分と同世代や同年齢の人の活躍や自分の理想の生活とのギャップをふと感じると、26にもなって何をしているのだろう。なんてスカスカな人生なのだろうと焦りを感じる。積み上がっていくのは年齢だけで、知識も実績もスキルも年収も何もほとんど変わらない。そういう自分に対する嫌悪感を近年の誕生日では強く感じるのだ。



話は少し逸れるかもしれないが、私はたまに次のような映像を観る瞬間がある。それは、ある男性が夜の高速道路を車で飛ばしている映像だ。私は助手席に座って運転する男性を眺めるような格好の視点だ。

その車はハッキリとはわからないが、白の、ポルシェのパナメーラかレクサスのLSかメルセデスベンツSクラスのように見える。だが、ぼやけてよくわからない。それでもハッキリとわかることがあって、その高級車を運転する男性は運転しながら泣いていて、その男性は紛れもなくいつかの自分自身であるということだ。

私にはそのいつかの自分がなぜ泣いているのかがよくわかる。それは自分が「成功したな」と感じているからだ。この映像を観るようになったのは、今年に入ってからくらいだが、私は昔から、自分が「成功した」と感じる瞬間に自分は泣くだろうということをなぜか確信している。

「成功」の意味や範囲は広く、人によっても何を成功と捉えるかは大きく分かれるだろう。その成功が車好きな私にとっては先述の1千万円をゆうに超える車に乗ること、もっと正解に言えばそれくらい稼ぐことなのだ。

成功すれば、笑う人がいるだろう。喜ぶ人もニヤリとする人もいると思う。でも、私自身は確実に泣くと思う。成功した気持ちはわからないが、その瞬間だけは不思議とクリアにイメージできるのだ。

今までは、どこで泣くのかまでは知らなかった。高級寿司屋なのか、プール付きの家なのか、温泉に浸かる時なのか、はたまに普通に道を歩いている時なのか。だが、最近はなぜか、この運転中に、しかも高速道路で泣いている自分の映像をたまに観るのだ。

これは寝ている間に夢として観るのではない。起きている時のふとした瞬間や目を瞑った瞬間にこの映像が流れてくるのだ。これを白昼夢というのか予知夢というのかよく分からないが、自分の中では極めて不思議な体験である。



ここで問題になるのが、高級車に乗って夜の高速道路を走ることが個人的な「成功」の理想像や到達点だとしても、私は本当にそこに辿り着けるのだろうかということだ。映像の中の自分はいつまでも涙を流し続けているだろうが、実際の今の私は、映像としては知覚しているものの、そこに行き着く考えやイメージを持ち合わせているわけではない。

一つ一つ歳を重ねたとしても、あの泣いている自分に近づかねば、本当に成長している、大人になっているとは言い難いのである。映像と今の自分とのギャップやそれをすぐには埋められないという歯痒さが、誕生日からポジティブな感情を奪うのかもしれない。

歳をとるということは大人になっていくことであるが、一方で、人によっては自分のイメージや理想との距離がより正確にわかるようになって、そのギャップや現実に苦しむことがあるのではないだろうか。今まさに私と誕生日と関係はそんな感じなのである。

26歳の誕生日は終わったが、27歳の誕生日が徐々に迫り来ている。約1年後のその日までも私はあの映像を時たまに見続けるのだろう。次の誕生日までに出来うる限りのことをして、あの映像の自分に近づかねばならない。人生に成功したいつかの私は今日も高速道路を飛ばしているだろう。


早く泣きたい

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)