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試着室に住まう


試着室から一度も出ることなく残りの人生を過ごす。自分がそんな選択をするとは思ってもいなかった。


この試着室には天井まで届く背の高い鏡とローチェストがある。チェストの引き出しは六本。人ひとりが暮らすには充分事足りる。チェストに何を入れるかを考えるのは悩ましくも楽しいし、鏡があれば寂しくも無いだろうし。





家具より重要なものと言えばが言わずもがなだが壁紙だ。壁紙にはそれなりに詳しいので触れて確かめることにする。指四本だ。親指以外の左手四指で均等に触るのが好ましい。手のひらまで触れてしまうと温感が働き過ぎて判断が狂う。壁の熱を " ぬくもり " と勘違いしたり。ただ自分が冷え性なだけかもしれないのに。





壁紙は上質で仕上げも丁寧だ。ここに住まう不安を一掃するには充分だったし、そもそも不安も感じていなかったのでカーテンを閉め、いよいよ試着室を住処にすると決めた。


胡坐をかきベージュの絨毯を撫でていたらカーテンが控えめに捲られて仕事仲間が顔だけをにょきっと室内に入れてきた。出番です撮影お願いします。彼女は遠慮がちにそう言うけれど僕はもう決めたのだ。一生ここから出て行かない。そう答えた僕に特段驚くわけでも無く、彼女は黙って顔を引っ込めた。あたりは静かになりカーテンだけが揺れた。


つい今しがたまで仕事仲間の顔があった場所をぼんやり見つめながら幾つかの矛盾に気づきだした。仕事を断ったにも関わらず平静だった彼女も不自然だし、そもそも僕が壁紙好きなのもおかしい。壁紙が好きだったことなんかあったか?一度も無いだろうよ。寝ているのだな。これは夢か。そう思った瞬間、まぶたの下で目がひらく。夢だ良かった。夢かよ馬鹿らしい。


リアルな夢は厄介だ。これが明らかに現実から乖離したもの、たとえば空飛ぶサッカー選手になって上空50メートルの高みからゴールを決める夢なら、目覚めと共に頭も切り替わるが、今朝のような夢だとそう簡単にもいかない。あの部屋はしょっちゅう撮影に行くショップの試着室だし、ヘアメイクが仕上がるまで使っていない試着室でぼんやり待機するのも実際のルーティンだ。現実と夢が地続きになると目覚めた後の現実にまで夢の不条理が顔を出す。


気持ちの悪さが残る。
この感覚は陸酔いに似ている。









2時間後、また試着室にいた。






二度寝したわけでは無い。元々、今日の現場がここだっただけの話だ。


ヘアメイクが仕上がるまで、この中でぼんやりと時間を過ごす。普段はスマホをいじって暇を潰すのだが今日はそんな気分にはなれなかった。夢と現実の境が曖昧なまま現場に入ってしまったので感覚が少しざわついていたのだ。ノーランの映画みたいだな。さすがに目の前の光景が夢か現実かくらいはコマを回さずとも分かるけど。これはきっと現実だよ。


胡坐をかきベージュの絨毯を撫でながら改めて部屋を見まわし朝の夢を思い出す。そういえば「空飛ぶサッカー選手」みたいな夢を全く見なくなった。見る夢はいつも現実ベースだ。日常がほんの少しだけズレたまま進んで行き、気づいた時には元に戻らぬほど脱線する、そんな夢ばかり見る。若い頃は気楽に空も飛んで目からビームも出したのにな。



夢の中の僕はなんだか知らないけど壁紙にこだわる人だった。せっかくなので今まで興味が無かった壁紙に目を向ける。




こんなに可愛かったのか。



直に触る。「親指以外の左手四指で均等に触る」らしい。夢の中の僕がそう言っていた。それが理にかなった触り方なのかは分からない。おそらく出まかせだろう。僕はそういうホラを頻繁に口にする。


気づくと、これまでの行動は夢が示す通りに推移している。このまま夢を再現するとどうなるのだろう。「夢の再現」とはなんともこそばゆいな。


少し時間が経った。カーテンが控えめに捲られて仕事仲間が顔だけをにょきっと室内に入れてきた。出番です撮影お願いします。遠慮がちにそう言う彼女に向かって僕は真面目な顔で答えた。


「やだ。出ない。俺、このままここに住もうと思うんだよね。」


彼女はうなずいて笑った。「ここ落ち着きますよね。似合ってますよ。じゃあ、お願いしますね撮影。」







今までの僕はおかしなことを言う人に対して、礼儀のつもりで笑ってみたりツッコんだりしてきたけど、あの人達、意外に本気だったのかもしれないな。少なくとも今の一瞬(ほんの一瞬)、僕は本気だったよ。本気で試着室に居座るつもりだった。


それでも引っぱりだしてくれる人がいるかぎり現実の世界も悪くはない。僕の夢はあっけなく終わり試着室から踏み出した。陸酔いは消えていた。























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