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マスクしてほしい人の権利??―答えはノーです。

こんにちは。マスク拒否して飛行機を降ろされたマスパセです。(@mask_passenger)

Twitterで”コロナにかかったニート”さんから、ご自身が書かれたマスク関連の記事について言及を頂き、感想をお求め頂きましたので、応答します。

マスクについての私の見解は、以前Blogに書きましたのでご参照ください。

その上で、この記事の「マスクしてほしい人」の権利についてお答えします。

この世には、
・マスクできない人
・マスクしたくない人
・マスクしてほしい人
の3種類の人たちがいるそうです。(引用)

マスクをしてほしい人は、他人に介入してマスクを強要するのでなく、自己完結する範囲で自衛の対策をすればいいだけだと思います。

ノーマスクの人に近づかなければいいし、自らそっと距離をとればいいでしょう。

最近は、ウイルスの侵入を完全に防護するフルフェイスの超高性能マスクも販売されています。結構高いようですが、オススメです。もしくは、医療用ガウンや防護服を着用するのも有効な自己防衛策でしょう。

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大切なのは、自分の身は自分で守ることです。感染防止策は、あなたが必要と感じる範囲で、自身で行えばいいと思います。

私は、マスクをしない自由も、逆に過剰にコロナ対策(道端で防護服着用など)をする自由もどちらも認めるべきだと思っています。見解や価値観が多様化してきている今の時代の世界において、個人にその自由を確保することこそが、一人ひとりにとって生きやすい社会を作ります。

リスク観や感染防止に対する考え方、例えばマスクを着用するか否かは人それぞれです。社会として何か一つの方策を押し付けることは妥当ではありません。

その結果として、コロナに感染するのもしないのも自由です。コロナ感染は自己責任か?については、私の前回のNoteにも書きました。

ノーマスクの人がいることによって、周りの感染リスクが高まると不安になる人も確かにいるでしょう。では、その不安感情のために、その一人をつまみ出すことが正当化されるのでしょうか。公共空間には、色々な人がいるのは当たり前です。文化も衛生観念も思想もさまざまな人が暮らすのが社会です。それが、多様性ある社会です。少数の誰かを排除することによって守られるべき安全など存在しません。全ての人がその場所に対する権利がある、それが公共性です。

もちろん自発的にお互い歩み寄れる分には歩み寄ったらいいと思います。でも、多数派が、何らかのモラルを強要することこそが、同調圧力と暗黙の排除を生じさせます。「たくさんの配慮と我慢で社会は成り立っている」と考えるのは自由ですが、それを他人に同水準で求めることは生産的ではありません。その表面的には綺麗に成り立っているように見える「配慮と我慢」の美しい世界も、個人の自発的なモラルではなく、周囲の監視と同調を好む日本人特有の偏狭な精神によって薄氷の如く維持されているだけです。

マスクは、他人を守る「思いやりと配慮」のシンボルになりました。マスクは視認性があるからこそ、マスクをしていない少数者は思いやりの欠如が可視化されます。でも、思いやりの形態は決して一つではありません。ノーマスクで外出する私も、別の分野では思いやりに満ちています。ポイ捨てされた空き缶は拾いますし、電車で困っているお年寄りに席を譲ります。

社会とのかかわり方も、道徳の示し方も、人それぞれです。

そもそも公共心を強要すること自体、ナンセンスです。
感染したくないなら自分の身は自分で守る、他者にモラルを押し付けずに自分ができることで感染予防をする、これに尽きます。

皆の優しさで成り立つ安全な社会を他力本願で望むようなユルユルな気持ちでは、コロナ禍を生きていけません。

マスクしてほしい人からの要望について、私の結論はこうです。

お願いとしては承りますが、答えはノーです!

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