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お前は、マサヤン=ケンヂなんだ

医師の会、岡澤林太郎医師から返信があった。

…理解力は、ある人なのだろう。ご自身でそれなりに調べられたみたいだし、ご自身や奥さんのご両親までも、後遺症で苦しんでいる。一度、お会いして話がしたいものだ。

でも…これでおふくろが救われるわけでもない。出来る事は、やった。

段々と、気持ちに整理がついてきた。

眠れる様にもなって来たし、覚悟も出来てきた。

ただ、万が一の事を考えると、その後が気になってしょうがない。

特に遺産分割だ…。あのバカ兄貴と私の配分がどうなるのか。

ぶっちゃけ、カネなんぞどうでもいい…と言いたいところだが、それだと親父も納得いくまい。面倒な事にならないよう、上手くやらないと。

阿寒の土地は、確か…

私になってたはずだな…

あの土地だけは、私が受け取らねば…。

今思えば、おふくろはとうとう、自分の私利私欲に生きたと言える。本当に好き勝手やって生きた。そんなおふくろを、私はどこか軽蔑していた。

親父だって夕方まで働いてヘトヘトなのに、夜の仕事の送り迎えをずーーーっとやらせていた。その役目を、親父は文句ひとつ言わずに続けた。

今見ても、おふくろは明らかに親父に対しての感謝が足りない。まるで「やってくれて当たり前」くらいに見える。

だが…そんな私の態度で察したのか、おふくろは反省したのか知らんが、私だけは兎に角、甘やかした。

店でもしょっちゅう、私の話をしていたらしい。客曰く、息子の私をいかに溺愛していたかが分かったという。

兄貴はきっと、そんな「差別」の中で面白くなく、捻くれて育ってしまったのかもしれない。

だから、私の両親はとにかく、親として全てが「下手くそ」だったのだ。

それでも…それでも親だからと、今回自分の意志でワクチンを打った後も、しっかりと看病して来た。私だって真理探求者のはしくれ、最初に倒れた時から「やはり」とは思っていたのだ。

そして、この短期間でずーっと、おふくろを看てやっていた。

出来るだけ話しかけ、出来るだけ笑顔で接し、出来るだけ買い物にも付き合ってやった。

倒れる数日前、リサイクルショップで私に「買っちゃるか?」と言って来た靴。今も大切に履いている。私が心から感謝を言うと、おふくろは無邪気に喜んで、「また買っちゃるね!」と言った。

朝10時から始まる約1時間のトレーニング。親父も交えて、和気藹々と楽しくやっていた。いつしかその時間が、楽しみになっていった。

今まで一度も食卓を三人で囲んだ事などなかった。…が、彼女が退院してから私が家の茶の間のレイアウトを変え、テレビを離し、三人で中央を囲める様にした。

食事をしながら談笑する。…多分、こんなの私が小学校…いや、バブルの時代の…幼稚園の時代の頃から無かった事だ。

…この短期間、倒れるまでに出来る限りの事をしたつもりだ。

とびっきりのカーネーションを送りたいのだが…出来るかどうかは分からん。仮に出来なかったとしても、後悔は無い。

おふくろはある意味、ずーっと独りだった。確かに、釧路の末広町の住人に50年間、愛されてはいた。

だが、家族に彼女の居場所は無かった。

でも息子として…最後の最後にその居場所を作った。

親孝行…と言える…よな?そう、願いたい。

…おい、しっかりしろ。お前、いい加減にしろよ。

お前はあの、マサヤン=ケンヂだ。まだやる事が山ほどある。

おふくろよりも、さらに孤独を経験する事になるだろう。こんなところでベソかいてどうする。

前を見ろ。胸を張れ。

お前は、マサヤン=ケンヂなんだ。

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