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孤児院→東大→起業の半生①

私は自分の親が誰なのか知らない。いや、正確には名前だけ知っている。どうやら私は母と思われる人の姓のようだ。相当若い頃に私を産んだようだ。もしかしたら、夜のお店の女性だったのかもしれない。私にはわからないし、探し出そうとも思わない。

私は現時点で独身であるから、私の半生を知りたいと思う人も現実世界にはいないだろう。いたとしても私は嘘をつくように思う。

だから、noteに書いてみようと思った。もちろん回顧録に基づいた私小説のようなものであるから、多少の誇張や時系列の齟齬は免れたい。フィクションだと思う者はそれでよし。私にとって、それは何ら問題ない。

孤児院(児童養護施設)で育ち、東大を出て、お金をもった。そして、セミリタイア。私は30代だから、半生というには少しまだ早いが、激動の中を生きてきたと思う。このたかが30年少しの間で私が誇れるモノは「東大」という学歴と「金」という価値観に集約される。

よく「世の中は学歴じゃない」「お金じゃない」という正論を標榜する者もいる。ごもっとも。ただし、私にとってはそれが全てであった。私のような出自の者がこの2つを手に入れることがどれだけ難しいことか…。

物心ついた頃から施設にいた。妙に自分の立場を理解していたような気がする。施設のお兄さん達を見ていると大抵高校卒業とともにいなくなる。就職だろうか。要は私も同じ道なのだと悟っていた。つまり「高校まで」がここの居場所なのである。それまでに自分で新たな居場所を見つけなくてはならなかった。

施設のスタッフは親切で「これが親というものなのか」という感じだった。今でも親の感覚というのはわからない。よく遠足や、社会科見学のようなイベントがあった。要は自立支援である。これにはいつも悩まされた。というのも、私は小学校の時、テストの成績という意味では「かなり」優秀だったと自負する。成績表なんていうよくわからないスコアはほぼ全て◎だったのを覚えている。小学校の先生が、施設のおばさんたちに何度も会いにきてくれて、私のことを褒めちぎってくれたことを陰ながら知っている。今となってもそのことを思い出すと、目頭が熱くなる。

話を戻そう。なぜ自立支援に悩まされたのか。つまり、私は将来的に進学したい、いや進学できる資質がある、と自分でも分かっていた。ただ、施設のスタッフは人格的に素晴らしい方が多くても、決して勉強のプロではない。この私の苦悩は大学受験まで続くことになった。

のちに分かることだが、お金は最低限あった。父親と思われる人からの支援があったのであろうか。だから、小学生ながらも他人よりも少し多いお小遣いで参考書等を買うことができた。ただ、基本的には「お金がない」というのが私の状況なのだと、その頃に感じていた。18を過ぎれば0になるのだと。

今でも覚えている。小学校4年の夏である。夏休み前の最後の登校を終えて帰路についた。いつもより早く終わったから寄り道しようと思い、電車に乗って3駅ほど離れた、商業施設の揃う市街に向かった。お目当ては大きい本屋である。

どんな本を読んだか記憶が定かではない。ただ、大学や進学関連の書籍を読み漁り「学費」というものを知った。こんな高額なお金を払えるわけがない。正直、それを読みながら泣き出してしまったのを覚えている。

その後、夏休みの間、皆んなは見向きもしなかったような奨学金などのリーフレットや案内を持ち帰って部屋中に溜め込んだ。自分なりに希望が見えていた。国立なら学費が安い。奨学金も貰える。この二点が私にとって希望の光だったのである。

とにかく、私は勉強に燃えていた。それだけが自分の成功する道だと思っていたのであろう。

続きはまた気が向いたときに。

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