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手羽先カレーとマユのご飯を作る

友人が「顎関節症」になったと聞いた。僕も中学の頃随分酷い目にあった。口が開かないで噛めないのだ。成長過程の問題であったのかもしれない。いつの間にか治ったが今でも顎はポキポキ鳴る。そこでお裾分けにカレーを作ることにした。

「顎関節症」というのは辛い身体の状態である。医師は「病」と呼び、治療できると言うが本気にしてはならない。破壊的な手術かオマジナイのような投薬である。流石に「成長痛:体が変わろうとするときのキシミ」を「病」とは呼ばないが......…。
今私達が苦しんでいる「身体の状態(病因が自分自身の問題である)」には「病因」も治療法も見つけられない。
「リュウマチ・骨変形・骨粗鬆症・痛風、膝の痛み」骨にまつわる不調は多く聞かれる。

手羽先を長く低温で煮る。骨に絡む生命をスープに煮出すのだ。手羽先は癖があるので先頭と元に割ってやるのがよろし。関節の中赤みが残ると嫌われる。

人は、内骨格の生き物である。骨が「腱」で繋がり、筋肉が伸縮して身体は動く。これ以外にも「外骨格」とか「軟体動物」様々な「生命のコロニー」の形はある。(昨今の風潮はマイクロバイオームレベルの集まりとしての分類があるときく、その意味では僕の観点は最新の流行である。)
内骨格の生命の問題点は、全体的なスケールの変化に伴い組み換えられなければならないということである。どちらが先かは別として身長が伸びれば骨も伸びる、縮めば組み換えが起こる。青年期の「成長痛」、老人の脊椎圧迫骨折、五十肩、いずれも全体的な組み換えが起こった時に内骨格との間の軋轢だと考えていい。筋肉の痛みなどにも現れるかもしれないが、「揉んで治る:炎症=免疫系の暴走」痛みとは少し違う。
人の骨はおおよそ一年半で作り変えられる。これは一生続く。カルシュウムは神経の伝達に必要なミネラルなので体液内で一定の濃度を保つために常に溶かされて、取り込まれていく。骨はカルシュウムのお財布なのだ。筋肉がタンパク質のお財布で脂肪が脂質のお財布であるように。

僕はこんなイメージを持つ。ジャングルジムに登っている職人がジムの棒(骨で言うカルシュウムなど)を外して、棒を取り付けているモデルだ。医学は、検査で分かる値(カルシュウムやビタミンなど)を見る。足りなくなれば薬で足して治るという1960年代の信念がその奥にはあるのだ。それが誤りであるエビデンスは「この「病」が決して減らない」と言う事実である。

下茹でして、アクを取ってからフツフツと煮る。おおよそ30分煮ることになる。

僕のモデルでは、「材料があっても職人がいないからいい身体が作れない」というものである。そのベースには食事から「立体構造を維持したタンパク・脂質」を取ることで「生命の要素」を取り込むというものだ。
外す職人(破骨細胞)、作る職人(骨芽細胞)とその関連物質を作るために必要な要素は食事から取り込んでいなければならないのだ。それらの要素は「商品化された食事」を作る過程で破壊されるのだ。

煮ている間にマユのご飯の材料を刻む。メインのはキャベツ、ジャガイモや人参といった根菜も食事を美味しくする。美味しいということは大事な価値である。流石にカレー粉は入れないが。
カレーの方の材料だ。ジャガイモがなかったのでカボチャである。ナスは美味しさを吸う。

母も関節がいたいとよく医師に行った。
運がいいことにその医師は「治りません」とはっきりという方だった。おかしな治療法も気休めの薬も出してはくれなかった。何度も医師に連れて行ったものだ。

僕は『母が年取って調理を自分で作れなくなり、「骨を食べなくなった」』からだろと思い、毎日宗八カレイを煮付けて食べてもらった。
とにかく味にうるさい人だった。買ったりお店に行って食べた時には「美味しくない」と平気で言う。けど、僕の料理には文句を言うことはなかった(米の炊き方が硬いとかは言われたことがあるが.....…)。
亡くなるまでの2−3年の間のことをいつも思い出す。それが良かったのかどうか分からないがが、亡くなる頃(2016年1月)には痛みを訴えることもなく、コタツで眠っている内に亡くなった。亡くなったあと数年は煮付けを作りたいとは思わなかった。

今日は友人が一緒に暮らしている「仔犬さん」にあげる分お食事も作ることにした。小さい犬は骨を除いたほうが良いと聞くので元の方を外してあげた。外した骨と先端は明後日のマユのご飯に入れる。カレーにする手羽先の根本方も外すと食べやすく喜ばれる。
煮汁を少しわけて「仔犬さん」のご飯のカボチャと人参を煮込む。柔らかくなったらキャベツを入れる。

伝統的な調理方法は加熱も緩やかで、生き物が「生」の食事から受け取っていた生命のパーツを壊さない「律」を持っていたのである。私達は家族という単位で食事を作り、その効果を確認しながら伝統的な調理方法を維持してきたのである。世界は変わり食材も変わる、そしてその鏡像である「身体と言うコロニー」も変わる。
その変化を受け止めながら私達の「家族の食事」はピンコロの人生の終わりを求めてきたのだ。

カレーも同じ様に作る。根菜は弱火で長く、玉ねぎは少し長く、ナスは最後。味が一つにまとまっていく。美味しんだなあこれが。

しかし、1980年代を分水嶺に「食の商売人フードキャピタリスト」が跋扈し始める。何処か遠い所で、キャピタリスト利を稼ぐための食事が作られる。コストを下げるためにセンターキッチンという恐ろしく効率的な工場では「栄養満点の商品」が作られる。最低のコストで作る人は働かせられ、「家庭の食事とは似て非なる物」を喰わせられる。造り手と配り手、食べては互いを知る事もない。
自殺者出るような劣悪なサプライチェーン(製造から配達・配布まで)ではテロが多発する(バイトテロ参照)。憎しみが商品に込められるのだ。法により厳しく規制されているから、「安心安全」だと言うが、自分が食べれないものがサプライチェーンを流れるのだ。お偉い方々は食べることもない。

「高温・高圧、濃縮・抽出・乾燥を通った製造ラインの工程」で作られた「バイキンも食べない栄養素の塊」は賞味期限が長く、美味しく、私達を依存させる。
そんな商品のサプライチェーンは利益を生む。
キャピタリストに忖度した専門家が家庭の食事を「エビデンスがない病の源だ」と貶める。


チェーン化された「店」は冷凍された商品をチンしてサービスする。地域でも都会でも「信念を持って食事を作っていた料理人」は消えていく。町中の豆腐屋さん、惣菜を売っている肉屋さん、小さな料理屋さん、スープから丁寧に作るラーメン屋さん、自分で食べるものを分かち合うと言うビジネスモデルは今や絶滅危惧種である。
この50年はグローバリズムが人々の「食」を奪っていった過程なのだ。「店」が客と店主が共に生きる場でなくなって久しい。
家庭が「家族が共に生きて死を迎える場所」でなくなったように。

ルーは何でもいい。骨から煮たスープが大事。別鍋で溶かして合わせる。合わせたら少しに手から冷ますとよろしい。冷ました時に味は染み込んでいくのだ。

食事の価値とは、家族が共に生きて死ぬ事だ。僕はペットのマユくんにも毎日「食」を作る。大喜びで食べてもらえる。とても幸せなことだ。
家族に食べてもらえるのは至上の喜びである。時に口に合わないこともある。それを伝える(文句を言う)も造り手が変わるのも難しい。
しかし、自分の身体にピッタリした食事こそが大事。子供が大きくなり、年老いていく親のために変わっていく食事。「飲みすぎ食い過ぎ偏りと言う貪欲」を戒めることも大事な家族の役割。

食育とは知識を覚えさせることだけではない。
共に生きてやがて死ぬことを知ることなのだ。

今日の夕食。お店のコロッケとパンにカレー。骨はマユくんが皆食べた、

家庭で作られる食事の価値は、もはや失われて久しい。
しかし、残念がることはない。
私達には見つける力がある。
何処か遠くを探す必要はない「それ」は私達のうちにあるのだから。。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。