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インスリン、糖尿病、生活習慣病(5)「生活習慣病(糖尿・痛風・高血圧・高脂血)、膠原病、難病」を一つの視点から見る

僕が生まれる前、母の姉は結核で亡くなり、母の母は肋骨カリウスだった。しかし、1960年辺りから医学は向かうところ敵なしであった。当時みつかり出したガン(最後の難病)さえも克服されるだろうと言われていた。

しかし、今私達は多くの病を恐れ、たくさんの(よく効く)薬を飲み、同じような手術(先週はポリープ、明日は胃潰瘍、来年は大腸がん)を繰り返して、「輸液(点滴)、経管(栄養)、胃瘻」で苦しみながら病院や施設で孤独に最後を迎える(ICUに入れられても30%は死ぬ)。

医学は検査値の異常が合併症を引き起こすという。『高血糖が「血液をドロドロにして、血管をボロボロにする」だから血糖値を下げないと大変なことが起こる』そうだ。では、高血糖の人がかならず失明するだろうか?腎不全になるだろうか?壊疽で足を切断するだろうか?その逆はどうだろう?腎不全になるのは必ず高血糖だろうか?よく5倍の確率でなるとか言われるがそれでは因果関係が有るとは言えない?

検査値の異常だけ下げて

年をとっていけば否応なく身体の組織は死滅していく。それが「老いる」ということだ。今の私達を苦しめる様々な災厄は、まだ若いうちから様々な臓器が劣化していくことなのだ。


検査値の異常


確かにII型糖尿病(高血糖)には「口乾・多飲・多尿」と言う現象はある。(もちろんI型糖尿病にも)

しかし、これらの現象は食事に対しての当たり前の反応(=病気ではない)なのだ。「食事を変えて消える間」は薬の必要はない。食事を変えても消えなくなった時には、もっと大変なことが進行中だ。

アメリカの整形外科学会では五十肩の20%は糖尿病と関係があると言います。致命的な災厄はこれとは別に進んでいるのです。そして、やがて追いつかれる。もちろん食事の価値に気がつけば逃げ切れるかもしれない(僕は逃げ切ろうと必死にあがいている)。

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僕は「生活習慣病」と「合併症」は相関関係は有るが因果関係はないと思っています。少数だが、統計学者もそう言っている。しかし、エビデンス重視の医療関係の専門家(商売人)は統計的な証拠があるという。

それはそうだ、検査値を正常にするための薬を売るためには、合併症との間に因果関係がなければならないのだ。そしてそういう専門家(商売人)は製薬会社の金で研究している。因果関係がないなどと言って、自分で自分の首締めるバカは居ない。

なので、そういう方々(専門家の方々)と議論する気もはない。僕自身がピンピンコロリの人生の終りを迎えるためにしている勉強なのです。

けどね、今は元気なあなた方も年取れば向き合う現実だということを忘れないでもらいたい。


医学は「欠乏」「過剰」「外敵(=感染症)」でしか病をみない

医学は1960年代に大きな進歩を遂げます。「DNA」という「生命の設計図」を見つけるのです。「病」は設計図通りつくられていない「不良品=病人」か、『人という乗り物を運転する「意識」』が間違えているかのどちらかだと考えられたのです。

啓蒙して知識を与えれば、生活習慣病は制圧できると医学は考えます。しかし、この20年負けっぱなしです。

そして「直さない治療=よく効くがやめられない薬」が大変な利益を医療業界にもたらせているのです。

しかし、自分の問題だと考えてみましょう。私達は施設や病院に患者や老人を隠して自分は不老不死のように勘違いしています。僕は2016年に母を、2020年に父を自宅で看取りました。

高度医療が寿命を伸ばすといいます。「高度医療が伸ばす寿命」とは、そんなに素晴らしいものなのでしょうか?僕にはそうは思えません。

この50年で生まれた「さまざまな問題」は、時代という変化を見つめなければ解読できないのです。そして、それは「(過去の学説を継承するのが商売の)研究者・専門家・医者(商売人)」には無理な注文です。

本当の原因はなんだろうか?

僕の小さい頃、お店には「完成された食べ物」は売っていませんでした。素材を買ってきて、家で作って食べる他ありませんでした。もちろんインスタント麺やパスタなどもありませんでした。

家には冷蔵庫はありませんでした(小学校の頃電気冷蔵庫を買ったことが我が家の自慢でした)。歩いていける町内に、肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんがありそこには大きな冷蔵庫があったのです。豆腐屋さんが毎朝トウフを売り歩いていました。近所の川で魚を釣ったり、虫を捕まえたり様々なタンパク質を手に入れていました。うちの側の小川にはぐながよく取れたものです。食用ガエル(ウシガエル)が田んぼでうるさく泣いたものです。(「三丁目の夕日」みたいだ)

素材から「家で食事」を作っていたのです。そんな食事には「魚や肉や野菜」の細胞や組織の「生命=脂質の膜に包まれ数千万から数億のタンパク質がとっっっけ混んでいる水」がたっぷりと含まれています。

その「生命=水」を大事にした調理プロセスでつくられた食事をとおして、「私たちの身体というコロニー」に取り込まれていました。

1960年代は「欠乏と過剰の栄養素」が私達を苦しめていました。その時代に確立した栄養学は「40種類程度のビタミン・ミネラル・必須脂質・必須タンパク質」が災厄の原因だと特定しました。

それは素晴らしいことでした。「脚気やくる病、鳥目に壊血病」に勝利したのです。しかし、それは「素材を大事にした食事」+「欠乏症を生む栄養素」の組み合わせが効果を生んだのです。

そして今片方の車輪が消え失せてしまいました。

1980年には「地産地消」と言う言葉が生まれます。何かの言葉が生まれるということは、そうでない現実(グローバリズム・アグリビジネス)が生まれたことの証明です。


この恐怖は「商品化された食事」が生んでいる

商品化された食事は、競争で勝たねばなりません。低コストで満腹を提供しなければならないのですから、当然『満腹コスト』の安い素材に頼らざるを得ないのです。

炭水化物は「競争食品」として最高です。誰ものが好み、満腹コストが安く、乾燥保存が効くので消費期限が長いのです。

「乾燥・濃縮・抽出」工程を経た食品は生命のミイラです。

同様に様々な食品が生まれました。「濃縮還元ジュース」「110度1秒殺菌牛乳」「レトルト食品」「心とろかすスイーツ」「ご当地ラーメン」。コンビニに行けばいくらでも並んでいます。少し、丁寧に作ってある商品はそれだけでは満腹にならない量です。「アリバイ的ヘルシー」を売っているのです。

炭水化物は毒ではない、あまりに魅力的すぎるので本来食事に含まれていなければならない「生命=脂質がくるんでいるタンパク質の溶け込んだ水」が追い出されるのだ。サプリメントはあくまで補助にしか過ぎない。食事の価値をもう一度見つけたい。

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問題はどこに有るのでしょう

お店を責めることも、消費者の意識の低さを嘆くことも意味はありません。なにせ美味しいのですから。そして私達はあまりに忙しすぎます。早朝から夜遅くまでクタクタに働いても食べるにやっとです。

時折、お店でおにぎりと缶チューハイを買っている老人を見かけます。スーパーでかごいっぱいにカップ麺やレトルトを買っている人を見ては、毎日の生活は大変だろうなと思います。決して無知ではないのです。どうしてもそうしなければならない理由がります。その人の人生には理由があるのです。

僕が120kgになった20代の終わり、一人で東京に暮らしていました。毎日朝6:30から23:00まで仕事に追われ、自分の勉強(コンピュータ)をして食事は近くの立ち食い蕎麦かカレーで、土日も出勤していました。当時食事日記を持って栄養士に差し出すと呆れ果てられながら×を付けられるのです。けどね、新潟から東京に一人で出てきてなんとか自分らしく生きようとしていた。ブラックな企業で負けないように頑張っていた。それを簡単に✗付ける看護師には心底腹がたった。今でも、あのカリカリに痩せた看護婦が「私も太りやすいの我慢しているから痩せているの(=あなたはデブで自己管理ができない性格破綻者なの)」と言われたのには腹が立つ。他人の人生を尊重しない人間はうーんと苦しんで死んでもらいたい。確率的には皆そうなるのだが(笑)。

健康情報満載のレシピ本を見ては、どうして毎日食事を作れないかがなぜ書かれていないか不思議になります。しかし、作者や監修している医師も毎日自分のために「素材から生命を大事にした食事」など作っていません。

小綺麗な皿に盛り付けられたきれいなお惣菜。パーティには最適でしょう。けど、僕が母の後ろ姿を見ながら学んだのはそれではありません。

不器用で、お店で売っているものより美味しくなくて、子供たちは嫌って文句ばかり言う。けど爺ちゃんも婆ちゃんもそれを食べて元気にあの世に行った。それこそが僕にとっての正しい食事のエビデンスなのです。

幸運なだった

僕は毎日素材から食事を作っています。ものすごく時間がかかり、土日も休まず作っています。正直つらい。けど、僕の作るような食事は売っていません。売っていないものは作るほかない。

こちらのFBでも短縮動画がご覧になれます。

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恐怖の研究

確かに私達は恐怖に囚われています。しかし、いずれ死なねばならないことなのです。死を恐れるよりも、「よく生きる」事を目指すことこそが大事。


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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。