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食事に埋め込まれた「コード」(1)政治的に正しい栄養学、コーシャ、ハラール

私達は様々な食事ルールに取り囲まれています。『糖質制限、カロリー制限、全粒穀物(玄米正食)、地中海形、菜食主義』これに多種の変種や国粋主義的「和食バンザイ」型、テレビやネットでは情報の洪水です。

50年前に、僕の父母は食事に悩んでなどはいませんでした。家で習ったとおりに、毎日素材から食事を作っていました。そして家族もその食事を食べる以外の選択肢はありませんでした。

明治期や大正時代、戦後の動乱期、社会が大きく変化した時代に、多くの「食事哲学」が生まれました。今これだけの「食事CODE」が生まれているのも時代の反映なのです。

「政治的に正しい栄養学」とはなにか

「政治的に正しい(=実際には正しくない)」とは、食事行政の拡大に伴って生まれました。「行政」は「公平平等」を是とします。1980年代を分水嶺に「家庭」が持っていた機能が行政に委託されます。行政自身の必要性とともに市場でも「政治的な正しさ=裁判で勝てる」ことが要請されます。

給食、施設(病院・刑務所・介護施設)での食事、外食産業、弁当製造会社の社会的重要度は上がります。家庭で食事を作らなくなったのですから当たり前です。管理栄養士は『食事に使える神官』のように皿に並ぶ食品を選び量るのです。


栄養学の本

栄養士の「経典」はいつ確立したのでしょうか?

1990年前後、糖尿病と診断された当時120kg->85kgへと数ヶ月で落としました。当時のカロリー栄養学のダイエット手法(=低カロリーダイエット)でした。僕の本棚には当時買った食品成分表(4訂)が残っています。驚くべきことに、この当時から「考え方」は全く変わっていないのです。

行政のマニュアルに取り込まれ、運用されてしまう時、科学性(自分自身さえも誤っていると仮設できる柔軟性)は失われます。「官僚の無誤謬」ということを考えます。スターリニズムと言う言葉を思い出します。この30年の生化学の進歩は大変なものです。しかし、「カロリー栄養学」は未だにあの当時のままなのです。

しかし、それは仕方がないことです。これだけ大きくなった「食事行政」を今更変えることなど不可能なのです。「自分の身は自分で守る行動」を取らねばまりません。

人は環境の中で生きる、食事は私達を守り、殺しもする。

様々な宗教は「食事CODE」を持ちます。それは何らかの意味があります。

コーシャ、ハラールといった厳しい食事を扱う規定も今の尺度で測ることは意味がありません。いかに不合理に見えても、そのルールを守らなければ人の集団自身が危険に見舞われたのです。「不倫(セーフティでないセックス)」に関しての厳しい処罰規定は性感染症がいかに恐れられていたのか、そして「セックス」には大変な力があるのだと言うことを感じさせます。

社会は危機に面して様々な「CODE」を生みます。常にCODEは生まれ(経済的合理性がないことがわかると)消えていきます。

食物連鎖は生命を慈しみ、育てるものです。しかし時に凶悪な振る舞いをするのです。そんな時に「食事CODE」はその関係性を上書きします。

宗教は文字という手段を持たない文化において最適な情報の共有手段でした。家庭は、宗教の実践の場です。ラング(言語という概念)とパロール(実際の使い手の言葉)の関係が存在します。個別の実践(パロール)は微妙に差異を含みながら全体(ラング)に吸収され、伝播され、変えていきます。

インドの事例を考える(少し昔の)

かつて、インドの後進性を喧伝するために、『自分達が餓死しても牛を食べないインドの民を馬鹿だ』と嘲る輩がいました。しかし、牛は雑草で育ち、私達は「血や乳」を飲むことの出来ます。鋤を惹かせて畑を耕せる上に糞は燃料になるのです。公式にはないことになっていますが、不要になった牛は解体もされているし、市場もあります。文化の中で「食事CODE」の役割を他の文化の尺度で測ることはあまりいいことではないのです。実りのない議論なのです。

そして今のインドでは大きく様変わりしています。社会は常に変わり、常に新たな振る舞いを見せます。その変化を見つめなければ意味がありません。

文化というのは大きな枠組みだけど、実際には家庭で作られる個々の食事を個別に貫いている「構造(大げさ)」から読み取れるものでしかないのです。どこかの神殿に巻物に書かれて鎮座しているものではありません。そうでならば楽なのですが(笑)。

食事コード(=ルール)は社会の変化とともに生まれる

そして時に「食事CODE」は、自分の命にも匹敵します。食事というものは命に直結するので、簡単には変えることは出来ないのです。

かつて、「家庭で素材から食事がつくられていた頃」食事を作る責任は重大でその重圧や大変なものでした。簡単にユーザのリクエストに応えることは出来なかったのです。それは、抑圧にも感じられました。僕は小さい頃、母の料理に文句ばかり言っていました。

いま、食事は商品化され、誰かが作ったものを(自分の欲望に任せて)食べる他ないのです。戒めてくれる「家庭という檻」も消え去ったのです。

そしてその食事の安全性は行政に委託されたのです。このお話はまた次回。

様々な仕組みを失った今の時代を嘆いても仕方ありません。今できることを考えていかねば辛い死に方を迎えることになるのです。

ラムネ氏のこと

坂口安吾さんは「ラムネ氏のこと」という論文の中で、フグを食うというノウハウがいかに確立したのだろうかと考えています。

そして、現実を変えようとする「心」が世界を変えてきたという結論に達します。その原動力は自分の心に正直に生きるということだといいます。

同時に、どこまでも正直に生きることは出来ない(社会と言うものがなければヒトは生きれない)とも論じます。彼のジレンマは「生きるということの本質」なのです。

僕は毎日食事を作り、自分の身体を通じて『正しい食事』を見つけたい。それは僕にだけの正しさだろう。けど、見つけることの価値は誰にとっても意味がある。

僕はラムネ氏であり続けたい。

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「フード・インク」「キングコーン」と言う映画

魚の粉砕骨を食べさせ、半分の時間で牛肉を生産させ、ルーメンにO157を繁殖させそのパテがファーストフードショップで子供を殺した事件をドキュメントしています。食事を商品として扱うことは命を殺します。グローバリズムが「食品の商品化」を生み、様々な問題を生んでいるとドキュメントしています。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。