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相対的幸福論とキッコーマン

数年前、いや、もうちょっと前、青雲のcmと肩を並べて、頭から離れないcmソングがあったのだ。

「幸せってなんだっけ。なんだっけ。うまい醤油がある家さ。
うまい醤油はキッコーマン。うまい醤油はキッコーマン。キッコーマン。」

キッコーマンのcm。

僕が見てたのは篠原涼子さんのだけど、昔はさんまさんがやってたらしい。ちなみに、この元歌はさんまさんのシングルらしいです。

当時高校生そこらの自分は、
「幸せがうまい醤油ってどういうことや。」
と思っていたけど、25歳にもなるとちょっと分かってきたような気がする。

今日はそんな「うまい醤油と幸せのお話」をしようかなと思います。

1. 幸せは「なる」もの? 「感じる」もの?


今はあまり見なくなったけど、ちょっと昔は
「幸せになる為にお金を稼ぐんだ!」
みたいな人が結構いた気がする。(テレビの特集とかで)

でも、そんなにお金がなくても幸せそうな人は結構いるもんだ。(僕は割とお金は欲しい)

僕の周りの友達もそう。

散歩とか、公園にシート広げて寝転がるとか、そんなんでも結構幸せを感じたりするもんだ。

「感じたりするもんだ。」と書いたけど、「なるもんだ。」と書いたらどうだろう。

ちょっと違和感。

やっぱり、僕が普段教授している幸せは、"感じる" もので、"なる" ものではない気がする。

2. 電線に止まる鳥はなんで感電しないのか


小さい頃、不思議だったことがある。

"電線に止まっている鳥はなんで感電しないのか" である。

この謎が解けたのは高校生の頃、物理の授業で、電気について習った時である。

               ・・・

普段僕たちが「〇〇!10万ボルト!」と黄色いポケモンに言っている"10万ボルト"というのは、物理学用語で言うと、

電位(でんい、英: electric potential)

というもので、めちゃ簡単にいうと

地球の地面(アース)を基準として、どれだけ電気的なポテンシャルを持っているか(ビリビリしてるか)ということである。

ただ、多くの人が誤解しているのが、この10万ボルトがビリビリすると思っているのである。実は少し違って、ビリビリするのは、

電位差(でんいさ)

なのである。つまり、相手と自分のビリビリ度合いの差がビリっと "感じる" のだ。

電線に止まってる鳥は電線と電線に触れてる両足の電位差が0なので、ビリッとこない。

一方、台風なんかで切れた電線に人が触ると感電するのは、足は接地(地球についてる)していて、手は何万ボルトの電線に触れてしまっているからその差分がビリっとするわけだ。(自分の体の中で電位差が生まれる)

3. 相対的幸福論


さて、ここでちょっと幸せに話を戻す。

幸せってなんだっけ?

そう、"感じる" ものだった。(僕にとっては)

これってちょっと電気と似てるなと思った。

電気もビリっと "感じる" ものである。

電気を幸せに置き換えて考えてみると、
電線に止まっている鳥は幸せを感じていなくて、台風で切れた電線に触った人は幸せを感じていることになる。

なんでかというと電気も幸せも差分を感じるものだからなんじゃないかな。

だから僕は、電位差の代わりに

相対的幸福 (ある状態Aから状態Bに変化した時の幸せの差分※絶対値はつけない)

という言葉を定義してみようと思う。

普段の状態: A=0とすると、好きなアーティストのライブに行ったり、ご褒美でお買い物したり、美味しいご飯を食べたり、そんな特別な状態: B=100との差分、

相対的幸福 = B - A = 100 - 0 = 100

この100が「幸せだなぁ〜」と感じているのである。

4. 毎日叙々苑の焼肉を食べてたら幸せなのか


ここまでは割と辿り着く、誰でも辿り着く。大事なのはここから。

さて、理系院生らしく実験をしてみたいと思う。題して、

"毎日叙々苑の焼肉を食べていたら幸せを感じるのか"

これはどうでしょう。幸せな気もするなぁ。でも最初の一週間くらいかな。流石に一年はキツイかな。

気になる実験結果は、、、!


お金が無くて出来ません。(誰かご馳走して下さい)


勿の論でそんなお金はないので、シミュレーション(これも理系院生お得意の)をしてみました。(妄想しただけ)

結果、

恐らく、最初の一週間とか一ヶ月くらいは幸せ感じれそう。なんとなく。

でも、これが当たり前になってくると何にも感じなくなっちゃうんじゃないかな。

つまり、常に100の状態なので、 100 - 100 = 0で差が無くなってくる。

洗濯機とかテレビ、エアコンが初めて家に来た時は、物凄い感動だったんじゃないかと思うけど、今普段生活してて、テレビ、エアコン、洗濯機があることに幸せ感じないですよね。

それと同じ、叙々苑だって当たり前になると幸せを感じなくなっちゃうんじゃないかな。

ここまで来て勘の良い人は気付いたかもしれないけど、

絶対値を追い求めると、(例:お金持ちになる、叙々苑を毎日食べる、etc...)常に基準が更新されるので、より上目指さないといけなくなる。

600万稼いでる人は次は1000万、1000万稼いでる人は2000万という風に。

全然悪いことじゃない、上を目指すのは大事だしね。
でも、ちょっと苦しくなるかもしれないな。

5. 失って気づくこと


もう一度見てみよう。相対的幸福の定義を。


相対的幸福 (ある状態Aから状態Bに変化した時の幸せの差分※絶対値はつけない)


ここでちょっと疑問を持っている人もいるかもしれない。

※絶対値はつけない

この言葉、どういうことだろう。

つまり "マイナス" もあるよ。というこだ。

今をA = 0として、ある状態をB = -100とする。

すると、

相対的幸福 = B - A = -100 -0 = -100

ここで重要になるのが、マイナスは不幸せを表すと同時に、
過去を意味する

どういうことかというと、+ は現在、- は過去。

+100は現在が幸せ(状態B)
-100は過去が幸せ(状態A)

つまり、-100 は過去を思い返して、

「あの頃は幸せだった。」

と思い返している状態である。


さて、このような事例が思いつくだろうか。

例えば、震災などで家族を亡くされた人、
例えば、会社にリストラされた人、
例えば、ある日事故に遭って車椅子生活になった人、
例えば、恋人に振られた人、

僕も大切な人を亡くしたり、今まで苦しい経験も沢山あった。

そんな時、思い返すことがある。


「ああ、あの頃は幸せだったな。当たり前じゃなかったんだ。」


大切なお母さんを亡くした高校生が、

「ちゃんとお弁当残さず食べればよかった。ありがとうって伝えればよかった。」

と、テレビで話していたのを見たことがある。

幸せは相対的、当たり前の今(A=0)も当たり前が崩れた時(B=-100)に、幸せだったと気づくのである。

6. 反実仮想

とすると、

上を目指して、100, 200, 300と追い求めていくのは苦しいし、

かと言って、

-100の状態になって、「あの頃は・・・」

と当時に思いを馳せるのも苦しい。

なんとか、今のままで(A=0)幸せを感じれないか。

そこで救いの手を差し伸べてくれるのが、高校生の頃、古文の授業で習ったあいつである。

反実仮想(意味: 事実と反対のことを想定すること。 「もし~だったら… だろうに」のような言い方。)

声に出して読みたい古文文法第一位
鏡花水月と並んで愛染に使って欲しい技名第一位
かっこいいのに中々活用形が覚えれない文法第一位

ましか(ませ)、○、まし、まし、ましか、○

こいつです。

反実仮想、古文では、「もし〜だったら...だろうに」というように、


理想の過去を現して像することで、

今が如何にダメダメな状況か、嘆かわしい状況かを強調する文法。

これを、理想の過去を想像するのではなく、-100の状態を仮想することで、今を幸せに感じることができるのではないか。

相対的幸福 = B(仮想した今) - A(現実の今)= -100 

こうすることで、現実的に不幸な状態(-100)にならなくても、今のままで幸せを感じることができるはずだ。

でも、普通に生活していたら当たり前の幸せを感じることは難しいだろう。

だから、大事になるのは"気づく"ことである。

一つレベルアップしよう。

幸せは、
「なる」から「感じる」へ
「感じる」から「気づく」へ

7. "いただきます" と "ごちそうさま"


さあ、ここまできたらもう少し。

最後に幸せに "気づく" コツを教えよう。


それは、感謝だ。


「ありがとう」という言葉は「有り難し(あることが難しい)」が転じて、感謝を意味する言葉になったと聞いたことがある。

つまり、感謝というのは、本来、

"当たり前じゃない今に気付き、感謝する"

という行為だと言える。まさに、相対的幸福を教授する鍵になる、反実仮想なのである。

「ご飯を作ってくれてありがとう。」
「いつも車で送ってくれてありがとう。」
「大学に通わせてくれてありがとう。」
「愛してくれてありがとう。」

身近な人にこんな言葉をかけてみよう。

そして、当たり前じゃない今に、幸せに、気づくのだ。


               ・・・


でも、面と向かっていうのは恥ずかしい。

そんな貴方に、もっと簡単な方法を教えよう。

それは、

"いただきます" と "ごちそうさま" である。

そもそも "いただきます" は自分が主体の相手に敬意を払う謙譲語だが、
この敬意の対象は誰なのだろうか。

考えるに、"いただきます" という言葉が出てきたのはずっと昔、
まだ科学技術も発展しておらず、作物が天候に左右され、災害に左右され、雨が降らないと雨乞いをしていた時代の言葉だろう。

当時食べ物は、天の神様に感謝をして頂戴するものだったのだ。

"いただきます" は当たり前に食べれる今の時代に感謝して、
"ごちそうさま" は作ってくれた人に感謝して、

そうすることで、ちょっと、今の幸せに気づけるんじゃないだろうか。


               ・・・


「幸せってなんだっけ。なんだっけ。うまい醤油がある家さ。
うまい醤油はキッコーマン。うまい醤油はキッコーマン。キッコーマン。」


ふとテレビから流れてくるcmを横目に、夜ご飯を食べる。


焼いた秋刀魚に醤油をたらり。

「いただきます」

少し焦げた匂いと、醤油の薫りが鼻をくすぐる。


「幸せって、醤油の美味しさに気づけることかもな」


テレビの中のさんまさんが語りかけてくる。


「しょうゆうこと!」
























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