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第1章 ヨウとおジィ 昔ばなし 07

「三十三師団の至宝、戦車止めの松下曹長を間近で見られ、感激しております」日野上等兵が声を潜めて、緊張した面持ちでわたしに向かっていった。次々に小隊が瓦解して、急増で隊を拵えているために、日野上等兵と言葉を交わすのは初めてだ。

至宝とは、いささか大仰で、又聞きする程度ではよかったが、面と向かってそういわれると、右手の人差し指に妙な力が入りそうになった。ビルマで英国のM3戦車隊の進行を、九九式小銃の連射狙撃で止めてみせた。それ以来、神技だの至宝だのと呼ばれるようになった。


「日野上等兵、実包を、わたしの左側のこの位置に置いてくれ」わたしは伏射ちの姿勢で、最高の効率で弾丸を装填できる位置を指差しながら、日野上等兵に命令した。日野上等兵は実包を慌てて並べた。


先遣の斥候が、M3戦車三両が接近している情報をもたらした。戦車隊を迎え撃つべく、速射砲を携えた砲隊とは独立して、わたしは日野上等兵と地面に伏せて、ひたすらキャタピラが近づいて来るのを待っていた。

「ジンギスカン作戦などと、司令官はそんなふざけたことができると本当に考えておられたのでしょうか?」上等兵風情が司令官の愚痴をこぼすなど言語道断で、上官として、鉄拳でも見舞って兵士の緩んだ精神を律するべきだと思うが、日野上等兵の言い訳はもっともだ。河をわたり、山を越えて進軍するうちに、こんなとんでもない自然要塞相手に、作戦が成功するはずもないことを参加している兵士はみな気がついていた。

輸送トラックも馬も牛も足りない。輸送のための道すらないのだ。他方英国軍は、空からの輸送を行い、物資は潤沢だ。皇軍が山岳で伸びきって飢えに苦しみ始めるのを待てばそれでいいのだ。狙い撃ちをするまでもなく、放っておいてもくたばる。


「わたしは、チンドウィン河までいっしょにきたやつをな、花子と呼んでおってな。チンドウィンで、もうどうしようもなくなって、花子の手綱を放したときは、堪らなかった」皇軍の曹長が、牛が死んだくらいで泣き言をいうものではないのだが、チンドウィンの荒流にもがきながら溺れていく花子のさまは目に焼きついている。

牛のような大きな図体の動物が暴れまわると、迫力が違う。数万頭の牛がそうやって死んだ。

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