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第1章 ヨウとおジィ 昔ばなし 06

日野上等兵の肩を揺すったが、身体からは温かみが消えていた。アカシアの木にもたれたその姿勢は昨日からまったく変わりがなかった。たかる蝿の数が少し増えたかもしれない。蝿にとってこのあたりに屯する日本兵に生人も死人も区別はないだろう。

大概が死んだようなものだ。日野上等兵が死に、叉銃さじゅうを組んでいた相方は全員くたばった。同じように行軍し、同じ量の糧が与えられ、死ぬものは死に、生き残るものは生き残る。両親が与えたこの身体は、まだ地獄に耐えろということなのだろう。

水が飲みたいということしか考えられない時間は過ぎていった。水が飲みたい、水が飲みたい。水筒の飲み口の湿り気、冷たい手触り、水が喉を流れていく感触。四六時中、一分一秒、水のことしか考えられない、眠れない。英国軍と戦うという行為がずいぶん途方もなく遠くのことのように思えた。アメーバ赤痢にやられ、赤黒い糞を垂れるくらいしかできないでいるわたしの上空を、異常に低い高度で、英国の爆撃機が悠々と轟音を撒き散らしていく。

今英国軍に出くわせば、この九九式のピンを抜かねばならぬ。凹凸のなくなった外形状の感触を確かめるように撫でている。芳しいとは思えぬ戦況が続く中、手榴弾さえ色気がなくなってしまった。この貧乏くさい九九式ですら、陛下からの預かりものなのだ。

貧乏臭い手榴弾を撫でていると、安堵できた。地元の宇都宮では少々名の知れた柔道家という、日野上等兵はきっとわたしより生きながらえるだろうと思っていたが、脚の傷は致命的だった。飢えでくたばるよりはましなのかもしれないが。

しかしどんな理由があろうと、部下を死なせてはならない。生きて母君の前に届けることが、上官の役目であるのに。このような亜細亜の僻地で出会わなければ、よき友になれたかもしれない。人懐っこい日野上等兵の微笑んだ顔がちらついた。わたしは鼻唄のように、経を唱え続けるしかなかった。

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