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地下室の出来事

梅雨時期のインドにしては地下室はやけに涼しくて、むしろカラッとした空気を感じたくらいだったのを覚えています。

「これは修理できますよ。」

骨組みの木材が裂けてバラバラに分裂した仏具を撫でながら僕がそう言うと、一緒にいたお坊さんたちは信じられないという顔をしていました。

『あぁ日本の漆製品を触るのは久しぶりだなぁ』
『キレイな仕上げしてるな。』

インド・ブッダガヤでの最後の夜のことでした。

僕は20代後半から30代前半を京都にある法衣店の営業マンとしての日々を送っていました。

法衣店というのはお寺向けにお坊さんの身に付ける法衣やお寺で使う木魚などの仏具を販売したり修理したりすることを主業とする会社です。

そもそもを辿るとこの会社に勤めたことが大きな分岐点になりそれがなければ僕はこの時ブッダガヤになんていなかっただろうと思います。

小さな時からお寺や神社などの宗教に関わることの多かった僕は大学を卒業してもお金を貯めて歩き遍路の旅に出たり一度だけですがわずかな期間、海外巡礼に行ってみたりの日々を送っていました。
そんな中、30歳になる前に20代最後の遍路旅をしようと二度目の歩き遍路の旅を計画します。
それが法衣店に勤める前に勤めていた運送関連の会社に在籍していた時のことでした。

「一年掛けて区切り打ちで四国を一周しよう」

【区切り打ち】
遍路旅において「打つ」とは札所であるお寺にお参りすることを指します。
区切りとは1番から88番までを一度に回るのではなくて週末の休みや決まった期間の間に行ける所まで歩き、次回はまたその続きから旅を続けるという周り方である。また長期の期間を利用し、一気にまわる方法を「通し打ち」という。

働きながら「夏の徳島」「秋の高知」「冬の愛媛」「春の香川」という順序で最後に桜を見ながらゴールできたらと考えていました。

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しかしこの遍路旅の中盤でその運送会社をクビになったりと色々とアクシデントに見舞われながらの一年でした....。

それでも「きっと何かいいご利益があるはずだ!!!」と信じて僕は計画通りに四国を歩くことを続けました。
しばらく実家でのニート生活と四国での路上生活を交互に繰り返します。

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そして春が終わり桜が散った頃に無事に88番札所・香川の大窪寺を打ち終えました。

「とにかく一区切り着いたし、ちゃんと仕事探さないとな」

ようやく本格的な職探しをはじめ、すぐに法衣店の求人に出会います。

「こんな仕事が世の中にあるのか。」
「ちょうど遍路を終えたところでコレも何かの縁だ」

すぐに会社に連絡を取り、翌日に面接を受けその日のうちに採用していただくことになります。
「じゃあ来週から出勤してください。」
あれよあれよと仕事は決まってしまうのです。
友人たちには「いよいよお金をもらって寺回りするようになったか.....」と揶揄さえれましたが......。

こうして僕は法衣屋さんになりました。

年間の3分の1は社用車を駆ってお寺からお寺を渡り、担当エリアはありましたが日本中の多くの寺院さんを巡っていきます。

期間としてはわずか約5年という短いものではありましたが、多くの仏具職人さんにものづくりの手ほどきを受け、お坊さんたちに実際に使用する光景を見せてもらうことができました。
これまで見てきた仏具やお坊さんの身の回りにあるものはどうやって作られて、どうやって使われているのか。
学校や本では知ることのなかった知識が自分に蓄積していく感覚に僕は興奮していました。

もっと知りたいという気持ちは強くなり工芸品や民俗学の本に目を通すようになり、また仕事があるフリをして職人さんの工房に通いそれが上司にバレて叱られたことも何度もありました。

とにかくこの時は楽しくて仕方ありませんでした。
社会人としても仕事を通してたくさんの年長者に学ぶ機会を与えてもらい、人間としても多くの宗教者のもとで自分を磨く修行に恵まれた日々でした。

「本当にご利益があったな。」

何より経験できたこととその出会いに感謝するばかりです。

ただ仕事を続ける中でずっと僕は探していました。
「次はどんな旅をしてみようか」
「前の遍路旅を超えるような体験や興奮はどこにあるだろうか。」

年間のほとんどを車を使って日本中走り回り激務ではありましたが様々な経験を積める毎日はとても充実していました。仕事ではありましたがこの日々は旅として考えるとなかなか得難い体験の多い旅でした。

しかしどこかでもっと大きなことがしたいという気持ちがありました。
そんな時に僕は亡くなった祖父の書庫からを大量の古書を譲り受けるのです。

その中にあったのが国立民族学博物館が季刊発行する「季刊民族学」の創刊号から祖父が亡くなる年までのバックナンバーでした。

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そこに世界中の文化、習俗、宗教、生活風景についての多様な報告が記録されていました。
小さな頃から祖父に手を引かれてずっと目にしてきた宗教、様々な民族の営みや習俗を僕は振り返っていきます。

今の自分であれば仕事を通して知ったことから作り方のわかる民芸品が載っていました。小さな頃は理解のできなかった儀式や習俗も改めて触れると今の自分ならちゃんと切り取ることができるかもしれないという認識が生まれるものでした。

「この風景を見ながら、世界中の聖地を巡れば自分だけの遍路道が作れるんじゃないか」

僕はそう考えたのです。

頭に描いたのは三大宗教をはじめとするキリスト・イスラム・ユダヤ・ゾロアスター・さまざま宗教や民族の文化圏を頼りにユーラシア・アフリカ・北南米大陸の聖地を訪ね、最後に仏教の聖地ブッダガヤを目指す旅でした。

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こうなるとさすがに区切り打ちのように断片化して旅をすることはできません。
今の仕事を辞する必要がありました。
しかし自分のやりたい事の為に今お付き合いいただいているお寺さんには迷惑をかけられない。どうするべきか。

思い悩んだ結論はよく言われるあの言葉が結局背中を押します。
「一度きりの人生だし、やりたいことやらなきゃ」
それでも今の仕事に最大限の感謝を表し中途半端にならない必要があると考え僕は自分にあるルールを科しました。

法衣店の仕事には二つの花形のような大きな仕事があります。
上司にもその二つの仕事を取ってこれば一様は一人前として認めたやると言われていました。
僕はそれを成すまでは辞めないと指針を決めたのです。

この決意はより仏具や法衣、日本の手仕事や職人さんたちの世界、宗教者の生き方への見識を深いものへと導いてくれました。この話は当時から今もお付き合い頂いているお坊さんや職人さんたちのもあまり話したことのない話です。

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僕は純粋に仏教事や民俗学的な事が好きです。
根本にある原動力はもちろんこの気持ちです。
それに合わせて僕が懸命に職人さんたちに掛け合い、お寺を巡り続けたのには新たな旅に出たいという気持ちが原動力の一つにもなっていました。

僕を推してくれた職人さんやお寺さんには嘘をついてるようで申し訳ないと感じた時もありました。
だからこそ仕事は嘘なく誠心誠意できる限りの感謝を伝え辞めるまでは最後まで全力を注ごうと取り組みました。

それでも正直にいうと最後まで真実を言い切らなかった人たちの方が多かったとも思います。
未だに業務がキツかったから辞めたと思っている方もいるかもしれません。
これは今でもちょっと悔いが残る部分ではあります。

それでも目標に向けた走り続け入社から約5年後に僕は法衣店を辞めます。

そして退職から一週間後に最初の地・マレーシアに降り立っていました。

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遍路旅にはじまり、法衣店としての日々を経てこのあと僕は450日間かけて世界を巡ります。

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2日もメコン川でボロ船に揺られたり。
チベットの活仏に会った夜や
アフガニスタンの国境を越えようとした時。
モスクワ行きの列車でロシア人と飲み比べをしたり。
ある国の国王に会う機会を得たり。
ノアの方舟を探す研究者に同行して砂漠を歩いた時もありました。
遍路道とも関係のあるキリスト教の巡礼道を歩き。
イスラム教徒と一緒にラマダンも体験し。
ある国では反政府デモに巻き込まれます。
チベット難民の工芸師たちに会いに行き。
この世界の果てと言われる花畑を求めて山を登り。
そして最後にあの菩提樹の下にたどり着きます。

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そして冒頭の地下室は最後の地・ブッダガヤにある日本寺のものです。
ブッダガヤとはインド西部にある釈迦がさとりを得た仏教発祥の地とされている場所です。

【ブッダガヤ】
仏教にはお釈迦さまの人生の節目に関係する四つの土地を四大聖地として定めた場所があります。
○生まれた場所のルンビニ(ネパール)
○悟りをえた場所のブッダガヤ(インド)
○初めて自身の得た教えを人々に説いた場所のサールナート(インド)
○亡くなった場所のクシナガラ(インド)
特にブッダガヤは世界中から信者の訪れる仏教では最上の聖地とされています。ここにある大菩提寺こそ仏教最高の寺院とされます。

この日本寺は日本の各宗派が合同で寄進して40年以上前に建てられたインドにある日本のお寺です。国際仏教興隆協会さんという宗派を超えたお坊さんたちの組織が運営し、会員のお坊さんが1人または数人で一定の期間を住職として常駐してくれています。
 現地人向けの学習施設や日本語の本もある図書館があり、かつては日本人旅行者を数日ではありましたが無償で寄宿させてくださったりしていたそうです。
今でも図書館の利用や朝夕の座禅会の参加などができます。

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僕が到着した時は建立から約40年以上が経過し多くの仏具が使用年数を重ね、インドの気候条件と相まってかなり痛んでいる状態でした。
現地のインド人職員では保管方法のわからない線香や香木が一か所の戸棚に押し込められ、見るからに修理しないと使えなくなっているものやいずれ使えなくなるような状態の仏具が散見していました。

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そこで僕は当時の職員さんたちに自分の経歴を話し、インドからでも同じものが購入でき、いずれ修理することになっても日本の職人さんたちの助けになるように日本寺が持っている仏具の詳細や形式・寸法がわかる一覧を作ることを申し出ました。

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合わせて現地インド人の職員さんに仏具の普段のメンテナンス方法を伝え、簡易的な修理や仏具の整理をお手伝いしてもらいました。

最後に地下室の仏具も見てもらえないだろうかと言われお坊さんたちと地下室に入った時の一幕です。僕が旅を終えてブッダガヤを離れる数時間前のことでした。

「本当に修理できるんですか?」
「もちろん大丈夫ですよ。このくらいのものは今までもたくさん直してきましたから。」
その時、お坊さんたちは本当に信じられないということをおっしゃっていました。

本体の骨組みが剥き出しになり今にも四散しそうな仏具を撫でながら僕は懐かしさと旅が終わったというなんとも言えない寂しさに包まれました。

そしてこの地下室での出来事がやがて僕の中で「寺院設備学の構想」につながっていくのです。

これから書き進めていくものは「世界中の聖地を見てきます」と日本を飛び出した旅の回顧録です。

その道中には世界中の宗教施設の姿があり小さな時から目にしてきた世界の遺跡群があり様々な文化・習俗に生きる人たちとの触れ合いがありました。

そして、この地下室での出来事の前日。
最終地点・ブッダガヤの大菩提寺にお参りするまでの物語です。



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