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優しい雨

 短編小説の集い自主課題「故郷」

 二〇四X年、一月。
 息子の担任から連絡が入った。
 「明日、息子さんのことについて相談したいことがあるので、是非御来校ください」という趣旨であった。昔のように電話による直接会話ではないので、その場で概要を聞くわけにも行かず、とりあえずイエスの連絡だけをした。
 そこから明日学校に行く時間を捻出するために予定を組み直した。幸い、家で行う事務作業だったので、それほど苦労はなかった。
 連絡があった日の仕事が終わったのは七時過ぎだった。没頭しすぎていたのか、息子がとっくに帰っていたというのは気づかなかった。
 息子に、「先生から連絡があった」ことを伝え、どんな用件だか分かるか、と聞いてみた。息子は「知らなーい」と言っていたが、様子からしてなにやら厄介ごとを隠しているように見えた。とぼけているような微妙な表情の変化があった。十数年育ててきた親なのだから、そんなことに気づかない訳もないのに。
 とにかく「明日学校に行くからね」と伝えると、「うーん」と生返事をしていた。
 日課のように学校の悪態をついていたが、その日は何も言わなかった。

 「今回はお母さんだけで」と言われて、息子の教室に通された。
 教室は打ちっ放しのデザインの教室だ。来るたびに、出身校の変貌ぶりに驚嘆するばかりだ。ただの打ちっ放しに見えて、教室の壁は音の反響が極力抑えられたものになっている。二〇二〇年代の超高齢社会の時期に、教室で心臓発作で死ぬ教員が激増した。それは要するに声の出し過ぎであった。教室の壁など普通の壁だと、反響が大きすぎて教員の声が聞き取りづらく、大声を張り上げ続けなければならない。はじめ、教員全員にマイクを取り付け、同じく二〇一〇年代までに全教室に設置されたサラウンドシステムから声を流すという試みがされた。しかし、生徒の方から美声でもない教師の声をサラウンドで聞くのは悪夢だという書き込みがネット上でなされ、壁を変えるという代替案になった。ただ、書き込み自体は匿名なので、本当に現役の学生なのか、おっさんおばさんなのかは分からない。どちらにせよ、学校の施設を一気に変えられるというのは、立派な公共事業なので、いやそうな顔をしながら、ホクホク顔なのに違いなかった。現に、談合疑惑や地元建設業者と代議士の癒着が騒がれた。
 教室の前の黒板も背面黒板も巨大な電子黒板だった。
 教科によっては強力な威力を発揮する電子黒板も、国語や英語などではそれほどの効果もなかった。それを野党に追及されたときの総理が、「けれどもチョークの消費量が減った」と苦しい答弁をして世間の失笑を買ったのは、もう何代前の総理だったか。
 「子どものために」、「将来に託す」というと、どれだけ金を使っても文句を言われない時期が、二〇一〇年代の終わりから、二〇三〇年代まで続き、そこで湯水のように金を使った結果が今の学校だった。本当は「子どものために」は、厳しく鍛えてあげる方がいいのだが、甘やかす方向へ向かった。
 担任と一緒に、自動ドアを入ると、そこには学年主任の姿があった。
 入ると椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。私も「どうも本日は申し訳ありません」と謝りながら、お辞儀をした。すると、
 「いやお母さん、まだなにも話していませんから」
 と担任に苦笑された。
 担任に促されて、向かい合わせにされた席に座った。正面には学年主任と担任が並んで座った。少し低いようだったので、机の脇にある高さを調整するスイッチを担任が押した。椅子は黒いオフィスチェアで、机も昔の倍くらい面積があった。昔、発育もよく、肥満気味だった私はまったく身体に合わなかったのを見るたびに思い出す。
 「いやね、うちの馬鹿に昨日少し話したんですよ。なんかあるんでしょうけど、すっとぼけてね。もういやんなっちゃう」
 主任と担任は笑い転げていた。担任は中年の固太りといった感じで、春のスポーツ大会で無理をして、アキレス腱を切った。主任は理科の教師で禿げていた。二人並ぶと中堅芸人のような感じになってしまう。
 「じゃあ、私から説明しましょうか」
 と担任が主任を伺うと、主任がこくりと頷いた。二人とも、急に厳しい顔になった。
 「単刀直入に言うと」
 担任はゴクリとつばを飲み込む。
 「お子さんにですね・・・・・・、自主退学をおすすめします」
 目の前の担任と主任の顔が引きつった。
 私が、きっととんでもない顔をしたからだろう。自分でも表情のコントロールがつかなかった。私は昔ながらの腕時計のデバイスを使っている。もう、どんなものでもデバイスにすることができた。腕時計に入っている心拍計がとんでもない数値になったのだろう。けたたましい音を上げた。咄嗟に外した。そのまま机に肘をついて、頭を抱えてしまった。
 「君、単刀直入すぎるよ」
 と主任がたしなめた。
 「うちのが、何をしたのでしょうか」
 目線を二人に向けるのが怖くて、視線を下げたまま言った。さすがに彫刻刀で何かが彫ってあったり、落書きはないな、とどうでもいいことを考えた。
 「実はですね・・・・・・」
 担任には無理だ、と判断したのか、禿げた主任が説明をし始めた。。
 もともと、息子はかまってほしいという意識が強い子だった。小学校の頃にはそれでも先生がなんとか捌いてくれた。というより、そういう子どもがたくさんいたので、占有するのは難しい。
 中学生に入るとそんな息子と気が合う友だちができ、関係が密だったので、先生や周囲の大人がかまってほしいという欲求がわかなかったみたいだ。
 高校に入るときにそんな友人たちと別れることになった。そのころから、家での愚痴というか、報告というか、そういうのを私にする時間が日に日に増えてきた。高校一年のときの担任は五十代の女性の教員だった。その教員がどれだけ耐えてきたのかが、主任の話から分かった。息子はほとんどその先生のことを離さなかったらしい。さすがに先生の年齢のこともあり、妙な噂は立たなかった。しかし、他の生徒が話しかけると露骨に不機嫌になったりと、迷惑はかけ続けてきたらしい。ただ、その先生のおかげで大ごとにはならなかった。
 二年に入ってからの息子は、ほとんど業務妨害だった。
 自殺すると宣言して学校から失踪し、先生がたが探し回ったり、授業からの逃走は日常茶飯事らしかった。なんとなく既視感のようなものを覚えた。もちろん、既視感ではなかった。
 「今回自主退学をおすすめするのは、自主退学だと他のサテライトスクールなどに、転学することが可能なんですね。こちらの方から退学にすると、移ることができなくなってしまうんですよ」
 「どうして伝えてくれなかったんですか」
 「それは・・・・・・」
 主任は口ごもった。変わるように担任が話した。
 「いや、一番の決め手は考査をサボってしまったことです。二学期の期末考査をサボってしまって、なおかつ再試も設定していたのに、再試を無視をしてしまったからです」
 「だから、どうして言ってくれなかったんですか」
 二人で顔を見合わせて、決心したように担任が切り出した。
 「前の担任もそうですが、メールを送って窮状を伝え続けていたんですけど、何もリアクションがなかったそうですね」
 ドキリとした。
 「それに行事を不参加するときに、お母さんが許可をしてしまいましたよね」
 そうか、決定的に学校側との信頼関係を損ねたのは自分だったか。
 思い返すと忙しい時期で、適当に「やりたくないならやるな」と返事をしてしまったのだ。それにうちは片親である。母親がだめだから父親というわけにも行かなかったのだろう。
 「去年から三者面談も拒否されていますね」
 三者面談があったことも知らなかった。息子が知らせず、私がメールを見落としたのだろう。「見落とした」とは自分勝手な言いぐさで、面倒で無視したのだろう。
 話を聞いていて、自分の高校時代を思い出した。
 ほとんど同じことをしていたからだ。
 自殺未遂、行事不参加。リストカットくらいはしていて、時計をデバイスにしていたのは、それを隠すためだ。何年たっても、薄く、傷は残りつづけた。考査の拒否はしていなかったので、卒業だけはできた。しかし、あのときの自分がどうしてあんなことをしたのか、一番根っこにあるものは今でも理解できなかった。
 先生二人の話が、次々と開きたくない記憶の扉を開けていった。息子をかばわないといけないと思っていたけれども、結局そんな底暗い記憶がおざなりな返事しかさせなかった。聞いていて、背中に鳥肌が立ち、発汗が収まらなかった。

 マンションのドアを開けて、「ただいま」と言い、靴を脱いだ。「ただいま」は暗く、喉につかえたような声になった。長時間人と話してきたとは思えなかった。靴を脱ぐときも足が重かった。
 身体を無理に押し出すようにして、キッチンに入った。
 息子はキッチンのテーブルでゲームをしていた。「おかえり」と口では言うが、ゲームから目を離さなかった。
 先生の自主退学の話に何も返事をせずに、とりあえず息子と話をさせてくれと持ち帰った。帰り際、担任の先生は非常に晴れ晴れとした表情をしていた。おそらく、ずっとストレスをため込んできたのだろう。敵を討ったという気分だったのかもしれない。
 帰りに車を自動運転にした。流れる車窓を見ながら、ぶり返すように怒りがわいてきた。どうして考査の件をきちんと直接伝わるように言ってくれなかったのか。困っていることだって、もっと強く言ってくれればいいのに。どうして息子は何も言わなかったのか。話では「親御さんともっと相談しろ」と強く先生方が言ったそうだ。それでも、「話はします。でもどうなってもいいから」と息子自身は言ったそうだ。その時点でやけくそなんだから、本人の言っていることなんて信じちゃだめなのに。悔しくて涙が出てきた。どれだけ相手をなじっても、結局年齢なりの対処ができない息子と、不出来な自分が悪いのである。もしも相手が罠にはめたとしても。
 少し遠回りして、息子に会ったらどう対処しようか決めた。泣きながら、外を眺め、考えたのだが、結局具体的なことは決められなかった。ただ、頭ごなしに叱るのはよそうと決めた。頭のなかで「甘い」と言っている担任の教師の姿が浮かんだ。
 やっぱり何も言えず、「仕事休むからおばあちゃんところに行こうか」と提案した。それだけ言うと泣いてしまって、何も言えなくなってしまった。
 事態を察した息子は自室に逃げた。

 学校に数日休むと翌日電話した。直接電話をかけてきたことに担任は驚いていたようだ。もうずいぶん前から、「電話するヤツは無能」という風潮があるが、それはトラブルが起こる前の話で、トラブルが起きたら話はちがう。「おまえとはちがうのだ」という抗議の意思も込めて、直接電話をかけた。
 「その間にどうするか話し合うから」と告げると、表面上は渋々という感じの物言いで許可しているが、口元が緩んでいるのが分かった。明らかに電話になれていないのだろう。厄介者の息子がいないのが嬉しいのだ、と思った。

 二時間後、私たち親子は新幹線に乗っていた。
 私たちの目的地は静岡で、リニアは通っていない。
 私は息子に、昨日聞いてきた先生たちの話を伝えた。
 ここで話したのは良かったのかもしれない。
 お互いに逃げ場がないからだ。
 昔からそうだが、離婚率の上昇が止まらない現代でも、離婚をすると子どもに負い目を作る。みなその重圧に押しつぶされる。そして甘くなったり、妙に厳しくなったり、負い目に沿って行動をする。けれども人の生き方に正解がない以上、離婚をすることも、それによって負い目ができてしまうのも仕方がないことだ。理屈では理解できる。しかし、負い目によって確実に行動は変化する。
 我が家ではそこに触れないという行動を取った。
私も、息子も。
だが、そのストレスが集積し、学校で爆発したのかもしれない。
話していて、それがよく理解できた。いやそれも勝手な解釈で、勝手な解釈をすることで私が納得したがっていたのかもしれない。
どこまでも私は勝手な人間だ。
一通り話し終えたとき、車内販売のワゴンを男性の販売員が押してきたので、私はビール、息子はコーラを買った。
静岡に着くまで、息子は珍しくゲームをやらなかった。
きっと私が、これからどうしたいのか自分で決めなさい、と言ったからで、車窓を眺めながら、どうするか考えていたのだろう。

母は介護施設にいた。
今や老後は介護施設にいくのが普通になった。はっきりいって、自宅で老後を迎えるよりも上等な暮らしができるようになった。施設内がほとんどロボット制御になり、独りに一台、もしくは身体状況によって二台をレンタルされる。ロボットは二十四時間、利用者の脇にいて、介護から話し相手、ゲームの相手など、となりに常に人がいるような感覚になった。ペットを飼った場合、ペットの世話までしてくれた。医療分野は各施設、専門のロボットが数体配備され、診断、投薬指示、外科手術までこなした。
これだけの環境を自宅で整備するとなると、どれだけ資金が必要かわからない。
安倍川の近くの高台に母のいる施設はあった。このあたりは県庁所在地でもあり、駿府城がわりに近い。県庁所在地なので県の主要施設などもある。
 静岡駅に着いたとき、小雨が降っていた。
 やはり静岡の空気は柔らかく、優しかった。
 あの頃と変わらなかった。
 胸の内に甘酸っぱい感覚が広がる。
 今の息子とは状況は違うが、この土地が故郷だった頃の私も、やはり理解しがたい、難解な人間だった。
 中学卒業後、バスケットボールの選手として、独り息子が今通う学校に入った。けがのせいで大成できず、選手生命は高校一年生までだった。私の勝手な思い込みかもしれないが、学校はそんな私を、腫れ物に触るように扱った。そんな大人たちの態度を、私は「見捨てたのだ」と勝手に解釈した。
 それから荒れた。荒れたというより、先生方の気を引きたかった。私には単身、実家から離れ暮らすのは早かったのかもしれない。
 嘘をつきまくり、自殺をほのめかし、逃走を図り、とにかく気を引きたがった。
 学校を恨んでいたのに、学校の気を引きたい、という大人からすると困った生徒だったろう。それでも、その当時の先生がたは見捨てなかった。親はあきれて、ほとんど勘当状態になった。
 学校を卒業して、OLをして、「できちゃった結婚」をした。実家の反対を押し切って結婚した。それから折り合いが悪くなり、四十代になった今まで、もう二十年くらい故郷には帰っていなかった。その間、父親は死に、母親は介護施設に入ることになったが、それらの手配はすべて兄がやった、のだろう。
 そう思うと、息子だけでなく、私は人生そのものから逃げていたのかもしれない。

 三保の松原で会いたい、というのは母の意思だった。
 三保の松原には海の家のような売店が一年中開いていた。そこで母と息子、つまりは祖母と孫が初めて会った。母は未知の孫に会って、嬉しそうだった。会った途端、ロボットに指示を出して、三人で記念撮影をした。孫とツーショットでも撮った。
 「映像を記録しますか」
とロボットに聞かれ、孫の方が「勘弁してください」と逃げ出した。その様子に祖母は嬉しそうに笑った。
 「お土産を買う」という口実で、私はしばらく席を外した。わざと二人きりにしたのだ。別に、直接母に「孫の話を聞いてやってくれ」と頼んでもよかったのだが、数十年の月日が、それを阻んだ。望まれない結婚でできた子どもだ。望んでない相手がそう言ってどうリアクションするのか見当がつかなかった。

 売店から、松原が一望できた。
あまり広い浜辺ではない。が、砂浜ではなく多くの丸い石が敷き詰められていて、いわゆる海辺とはちがっていた。
遠景にはうっすら富士山が見えた。石の敷き詰められた浜辺と富士山がすばらしかった。相変わらずの故郷である。
 小雨でなくて、晴れていたらもっときれいに見えただろう。
 
 売店で黒はんぺんを食べて、息子は浜に行くと歩いて行った。今は浜にある、無数の石を拾っては投げ、拾っては投げていた。
 「本当はやってはいけないんだけどねえ」
 と母は言った。聞いたロボットが、
 「止めますか」
 と聞いてきたが、
 「放っておきなさい」
 と返事をした。
 「親子ねえ。あなたと同じじゃない、あの子」
 全くだ、と思ったが、返事はしなかった。
 「私ね、後悔していることがあるの。あなたのあのときって、目標だったバスケも奪われて、人生の雲行きがあやしかったでしょ。そういうときって、何やってもだめなのよね。だから、強引でもあなたを説得して、私たちが良いと思う方向に向けておけば良かったとずっと考えていたの」
 母は茶碗をゆっくり持ち上げ、お茶をすする。
 「お父さんとね、あなたの話になると、そういう話をお互いするのね。
 とりあえず、静岡に連れ戻せば良かったかも、とか。
 ずっと心配していたよ、お父さんも、わたしもね」
 私は洟をすすった。
 「あの子にも、そういうことを話しておいたわ。
 今はあなたは人生で谷の時期なの。こういうときって、自分で判断しても判断が間違うときが多いの。あなたのお母さんもそうだったのよって。もちろん、高校時代のあなたのことも話したわ。
 あなたひどいのね、話してなかったじゃない、自分のこと。
 全部をさらけださないと、子どもなんて育てられないのよ。
 それも、あなたの両親が後悔していること。
 子どもの気持ち、子どもの気持ちって、真剣に考えることから逃げていたのよ。
 それじゃだめよ。
 でも、人間だから、言えないことも、面倒なこともあるわよね。
 あなたの息子にも言ったけど、そういうときは周りの人間をうまく使うのよ。私はそれくらいの役割なら担えるはずだから、私に相談しなさいって。
 あなたももう意固地になることはないから、弱くていいから相談に来なさい」
 私は顔を上げないまま、小さく頷いた。
 小雨はやさしく浜に降り注いでいた。
 馬鹿な男の子は雨の中、夢中で石を投げ続けていた。
――了――(七二三六文字)

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