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「夕鶴」(3の3)【エッセイ】三〇〇〇字

―『ゆう子抄』と吉四六劇団と、私―

 「ゆう子」は、3男2女の都合5人の私生児を産むことになる。野呂祐吉が「好きもの」ということではなく(精力は強かっただろうが)、彼の夢、「ファミリー劇団」を実現するためだった。

 プレハブの組み立てが終わり、東京に戻らんとしていた時期に、2人の女性が加わった。小説で調べると、8月27日にゆう子さんが戻ってきて、あと一人は、9月1日に新人として入団した、詫間澄江さんだったようだ。悟くんから、野呂さんの愛するひとが再入団するとは聞いていたと思うが、はっきりした記憶はなかった。しかし、1人の女性は、団員用の寝室だったが、あと1人は、野呂さんの部屋で寝起きしていた女性がいたことは記憶している。それが、「ゆう子」だったのだ。たぶん、私が、早稲田の演劇学科に在学していることを話しただろうから、ゆう子さんも同じ大学にいたことと、2歳違いであることは、話してくれたのだと思う。

 ゆう子さんが加わり私が大分を離れる前、小学校の公演が1回あった。むろん、私は、力仕事と「幕引き」。ゆう子さんも同行し、舞台袖から観ていた。「げじげじ眉に紅いだんご鼻、墨で描かれた無精ひげ」の吉四六さん演じる野呂さんを見つめていた。その視線に熱いものを感じた。優しく芯の強さを感じさせる彼女の目に、私の母の目を見た。

 詫間さんが入団し団員の人数も増えたところで、夏休みも終わりに近づき、帰京の準備をしていた。そんなある日、野呂さんに呼ばれ、「東京に一旦戻って、また来ないか」と誘われた(「肥桶運び」が認められたのだろう)。高校からの演劇の道が、頓挫しかかっていたので、その誘いは嬉しく思った。農作業も含めて劇団での生活にも愛着を感じていた。しかし、夏休みが始まりすぐに帰省したとき。母に大学のバッジを渡したのだが、そのときの嬉しそうな顔を思い出していた。2浪までさせてもらって、中退するとはとても言えなかった。あとひとつあった。同じ店でバイトしていた女性、教育学部の野瀬喜美子のことも気になっていた。彼女の視線にも、母に似たやさしさを感じていた。こちらの片想いかもしれないが、後期になって、大学もバイトも始まれば、こちらから告白するつもりでいた。
 
 大分を離れる前夜、団員で送別会を催してくれた。その場に住職も参加してくれ、言われたのが冒頭(3の1)のことばだった。
「君は、大器晩成型だね、きっと」
そのときは、「え、『晩』まで、オレは苦労するってこと」、と思ったが、大器かどうかはわからないけど、20代は挫折の連続で、30代から年を重ねるにつれ、なんとか好転してきた。和尚には見えていたのかもしれないと、いまになって思う。

 当日の朝、みんなが見送ってくれた。
「野呂さん、悟くん、妹の奈津ちゃん、ゆう子さん、菊竹さん、小杉さん、徳永さん、詫間さん、ありがとう。徳永さんの笑顔、魅力的だったよ」と、心の中でつぶやき、手を振って、日常に戻っていった。
  
 造形劇場には、まだ困難が待っていた。移転した4か月後、新福寺を出ることになったと小説には書いてある。居候の若者が、劇団のお金と悟くんの大切なギターを盗んで消えたようなのだ。その騒動で、野呂さんと住職の関係に亀裂が入り、移転することになったようだ。そのページを読んで一瞬ドキっとしたが、その事件は、11月で、私が出た2か月後のこと、であった。 その後も、2回移転を余儀なくされる。そして、他の団員の退団も相次いだのだった。

 野呂さんとママさんの関係は、ますますこじれ、ママさんが離婚を受け入れないまま、ゆう子さんとは、内縁の関係が続いた。結局、彼女は、3男2女の都合5人の私生児を産むことになる。野呂さんが描く「ファミリー劇団」の夢に、ゆう子さんは従うことになる。内心、子どもを小さいときから芝居に出すことには抵抗があったが、野呂さんに押し切られたままとなる(それが後々波瀾を招くことになる)。ゆう子さんの苦労は続くが、自給自足の生活、開拓開墾、無農薬・有機農業、家族水入らずの充足の日々には、これまでの人生にはなかった充実感があった。

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     (農作業の合間に末っ子の茉莉子を相手するゆう子)

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     (お囃子の太鼓を打つゆう子)

 しかし、劇団は解体の道を歩むことになる。私がいた年の4年後。悟くんは、野呂さんと衝突する。彼は、吉四六劇団から別の方向に変えたいと主張した。そんななか、九州にきた黒テントの公演を観て、前衛演劇に惹かれていく。結局、野呂さんが妥協し、東京に行くことを認め、彼は、黒テントの活動に参加することになる。一人残ることになる詫間さんも、女性が座長になっている劇団の研修生と称して、退団する。

 結局、野呂さんと、ゆう子さんと子どもたちだけになり、1977年から4年間、演劇活動を休業し、農業に専念することになる。しかし、現金収入を得られるほどの収穫がなく、極貧の生活が続く。野呂さんは、3年すぎたあたりで、劇団員募集の広告を出すことをゆう子さんに相談するが、ゆう子さんは、貧しくても野呂さんと暮らしていることで満足だと、反対する。さらに野呂さんは、新しい劇団の姿を模索しようとするのだが、決定的な結果が得られなかった。

 しかし、子たちが成長し、ようやく野呂さんの試みが形になり、「ファミリー劇団」は、1988年1月に再生することになる。反原発をモットーに、「宇宙に平和を!地球に緑を!人類にユーモアを!」をスローガンに。劇団員は、野呂祐吉(58)、池ゆう子(39)、池大介、(14)、池春菜(13)、池心平(10)、池天平(6)、池茉莉子(3)の7名であった。その親子だけの劇団のユニークさが話題になり、マスコミも注目し、公演の申し込みが順調に続くようになった。

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(左から、野呂祐吉、次男心平、長女春奈、三男天平、長男大介、そしてゆう子 1987年)

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(1988年4月17日 ゆう子が豊田勇造に没頭し、劇団は反原発市民集会への参加に明け暮れていた頃)

 完全復活が期待される最中、ゆう子さんに変化が起きる。5人の子を産み、野呂さんの夢に献身的に尽くしてきた自分に疑問を感じはじめたのだ。初めて、自分を出し始めた。そのきっかけとなったのが、反権力、反原発、反公害運動をリードするフォーク・シンガー・豊田勇造だった。コンサートメーカーまでして、彼との交流を図ろうとする。恋心を抱いていたのだ。しかし、豊田が、夫婦でタイに移住したことで、進展しなかった。紆余曲折があったが、最終的には、野呂さんと生きることを選択する。発展していたら、三角関係の三重奏になるところだったのだ。

 ゆう子さんにとって、その恋は、「自己」を主張し、行動する人間に変えた。大分の向かいにある伊方原発の反対運動のリーダー的な役割を担うまでに変貌する。もともと、野呂さんと思想的立場を共有しており素地はあったのだが、豊田が火付け役でもあったのかもしれない。さらに、その積極性は、再出発する劇団においても発揮される。これまでのゆう子さんを演劇的にも大きく飛躍させたのだ。野呂さんにとっては、不幸中の幸いだったのかもしれない。それが結実したのが、1989年の秋に行われた文化庁主催の「地域劇団東京演劇祭」だった。ゆう子さんは、口上役を立派に勤め上げたのだった。

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  (1989年10月 「地域劇団東京演劇祭」で、口上を務めるゆう子)


 しかし、最後に、悲しいことを書かなければならない。再出発して、3年後の1991年2月16日。ようやく軌道に乗った時期に、ゆう子さんは、自分が運転した自動車とトラックが衝突し、42歳の人生を終えたのだ。
 
 野呂さんは、こう言ったようだ。
「ぼくの一番苦しいときに、突然現れて助けてくれて、そしてまた突然ふっと消えていったゆう子が、さながら『夕鶴』のつうみたいな気がしましてね」と。

(おしまい)

※高田くんは、札幌で息子と会社を経営しながら、演劇活動を続けている。

※写真は、全て『ゆう子抄』から

※ヘッダーの写真は、ゆう子のおへま役


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