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人を愛するためには自分を愛す、そのために必要なこと

“自分を愛するには、ルーツを許す”

人の価値観は、幼少期の家庭環境に端を発すると言われます。でも、まるで家庭環境で培った価値観、性格、考え方の癖は変えられないと考える人が多いです。

「人の本質は結局変わらないからな」

人を育成する役割を担う人が、このようにつぶやくことを何度も耳にしたことがあります。伝えても伝わらなかった時のいら立ちから発せられる言葉です。

同じような体験を持つ人は、この言葉に共感し、人を育成する側の悩みを共有し合います。

僕も同じような言葉を言いたくなる場面は何度もあったので気持ちは分かります。

ただ、人の育成に15年以上携わってきた僕は、前にも述べたけど以下のような結論を持っているのです。

「人はいくつになっても変われる」

きっと理想論だと言う人もいると思います。でも、仕方ありません。

どうしようもなかった人格を磨き、伝え方を工夫し、苦悩を抱えながら人と向き合ってきた僕は、何度も変われた人を見てきたのです。にわかには信じがたいと思います。

ただ、人が変われないと信じると、変われないと思っている人の苦悩は増すばかりです。だから、日々苦悩しながらも人と向き合い、ときには「人は変われない」と弱音を吐きたくなる全てのリーダーに、前向きな力を取り戻すべく僕の体験を共有したいと思います。

そのためには、とても勇気がいることですが、まずは僕のルーツから紹介する必要があります。少し僕の話に付き合ってほしいです。

“闇を闇として自覚せず、理想の自分でありたかった”

僕は男だらけの3人兄弟の末っ子として生まれました。長男と次男とは8歳、7歳と年が離れ、家族の中では一番弱い立場でした。物心ついたときは、長男と次男の喧嘩。長男の母親への反抗が日常でした。時に手を出すことさえありました。

僕は少し場の空気を読めない母を好きだったので、末っ子ながら自分が話し相手にならなければと思っていました。そんな母に長男が手をあげます。身が引き裂かれる思いでした。できることなら母をその暴力から守りたかった、でも8歳離れている自分には、力も勇気もありません。それが悔しさを倍増させました。

父は典型的なサラリーマン。帰りの時間も遅く、夜遅く帰ってくると、すぐに2階の自室に入ります。仕事のストレスからか、何か大声を発しながらティッシュ箱を壁に投げつけている音が聞こえます。

僕は1階で寝ていたので、その音が聞こえるたびに耳をふさぎました。自分の涙で枕を濡らすなんて当たり前でした。

子育てを放っていることの罪悪感から、日曜日はキャッチボールに誘ってくれる父でしたが、僕はどんな会話をすれば良いのか分からないので、その時間すら苦痛でした。

そんな父と母はあまり会話をせず、母が時折話しかける言葉に、父が否定するか、うむとだけ言う、そんな関係でした。自分にはそう映っていました。

長男と次男は僕が生まれる前はいつも行動を共にしていたらしいですが、僕が物心ついてからは2人が一緒に行動するのを見たことがないばかりか、ろくに会話をするところも見たことがありませんでした。同じ中学校に進んだあたりから関係がぎくしゃくし始めたらしいのです。

ところが、長男も次男も僕には優しかったです。一緒に遊んでくれたし、やんちゃな二人の破天荒な武勇伝を聞くのは楽しかったです。時代はビーバップハイスクールの全盛期。長男の高校での進級が危ぶまれ、進級の可否の連絡を兄と一緒に黒電話の前で待つなんてこともありました。

兄は2人とも180cmを超える身長を有しました。見た目も恰好良かったので、家ではいろんなことがあるとしても、僕には同級生に自慢できる兄達でした。

お兄さん2人とも格好良いよねとよく言われていました。でも、その2人が何度も喧嘩をします。間に立たされる僕は、まだ小さい心の器が張り裂けそうでした。

家族みんなが仲良くあってくれよ、それが僕の魂からの叫びでした。なまじ、個々では僕に対して愛情を注いでくれます。ただし、その当人同士は仲が悪い、その不思議なパワーバランスで毎回僕は板挟みになっていました。愛されていたぶん、まだマシなんじゃないかと言う人もいるでしょう。実際そうなのかもしれません。

でも当時の僕は、とにかく家を出たかったのです。全員との関係を断てれば良かったのですが、特に母親を見捨てることはできません。全ての間に立つのは幼少期の僕には重かったです。

5歳にして伴侶という言葉を知っていて、早く伴侶を得て、自分の家族を作るんだと決心していました。

“家に居場所がないと思った人間は、違うコミュニティーに居場所を求める”

家が落ち着くような居心地の良い場所では無かった僕が、居場所を作ろうとしたところ。それは学校でした。

今のようにSNSが無かったので、オンラインに居場所を作ることはできず、とにかく学校で居場所を求めました。

学校にいる僕は、家での性格を変えることができます。家では引っ込み思案だとよく言われました。店員さんに話しかけられても家族の前ではうつむいています。親戚に話しかけられても一言、二言で会話が終わります。よくある光景でした。

でも学校の僕は違いました。家での自分を変えたくて、とにかく明るかったのです。救われたのは、そんな明るさを友達も受け入れてくれたことです。無理した明るさだとしても、思春期の友達は気づきません。ただ、明るい仮面をかぶった性格は、苦境に立たされることがあります。小学校、中学校でも同様な場面でした。それは人前で何か発表する機会を与えられること。

人前で発表することがとにかく苦手でした。緊張したし、失敗を恐れました。同級生の目が気になりました。照れたり、真剣に臨んでいないフリをして、失敗したときの伏線を張ろうとしました。小学生の頃は、音楽の時間に人前で歌を歌うために、一人で前に出されただけで泣くような人間でした。

今思えばあのとき失敗を恐れていたのは、泣いていたのは、何かとてつもなく恥ずかしい失敗をして、居場所を失うことを恐れていたんだと思います。友人をなくすことを恐れていたんだと思います。

中学でバスケ部に所属し、多くの友人と関われたのは自分のような性格の人間にとって良かったです。

それはたくさん友人ができたからという意味ではありません。多くの人と接することで、キャラクターが定まらない自分の内面と向き合うことができたからです。

明るいのか、強気なのか、優しいのか、冷徹なのか、とにかくいろんな僕がそこにいました。

“家族の絆を取り戻すきっかけは、自分が家族を、環境を許すこと”

前に出るべきときに自分は一歩引いてしまう、積極的に手を挙げられる同級生をうらやましい目で見ていました。

文化祭でステージに立った時に明るく振る舞える同級生を眩しく見ていました。そんな自分の弱さ、自分の意気地の無さを家庭環境のせいにしていた僕が、高校生の時に家族を受け入れる転機になった出来事が起きました。

長男の結婚です。結婚自体というより、それは長男の結婚式での出来事がきっかけでした。

長男の結婚式に、次男が余興で歌を歌う場面がありました。人前で歌を披露できる次男のハートも眩しかったけど、長渕剛さんの『乾杯』を歌う前に放った次男の一言が、会場の空気だけでなく、家族の空気を変えました。

今でもはっきりと覚えています。

「これでやっと俺の肩の荷が下りる。〇〇さん(奥さんの名前)、うちの兄貴をよろしくお願いします」

そう次男が言い放つと、長男が微笑んでいる様子が見えました。心なしか、口元の動きから「何言ってんだよ」と嬉しそうにつぶやいた気がしました。

中学に上がる前によく一緒に行動していた二人に戻った気がしました。自分が知らなかった絆が時を越えて2人を結び直したんです。

その日以来、長男と次男が二人でお酒を飲むことも増えていきました。僕は高校生ながら、失われた時間を取り戻すかのように接近する2人を微笑ましく見ていました。

家族の関係が少し好転したことで、僕も学校での在り方が少しずつ変わっていきました。人の顔色ばかり気にしていた中学時代から、実は人の目を気にするからこそ、人の気持ちに配慮した交流ができるのではと発想を転換するほどまでになっていました。

この頃に、少年ジャンプで『ルーキーズ』が連載されるようになり、僕の夢はいつしか先生になることを目指すようになりました。教科は主人公の川藤先生と同じ国語。

“すぐそこにあったのに、気づけていなかった大事なもの”


長男の結婚を機に、少し家族らしさを取り戻した中で、自分の家族の見方ががらっと変わる瞬間が訪れます。

僕は社会人になり、全国規模の大手学校法人に勤めるようになっていました。

国語の教員ではなく、私学で、しかも配属先は専門学校分野。教科指導よりも人間教育をしたかった僕にとって、まさにやりたい仕事でした。

当時は今ほど働き方にうるさくなかった社会ということもあり、とにかく仕事ができなかった僕は、週3で職場に泊まっていました。

スポーツ系の専門学校であったため、職場にシャワールームもあり、何よりファミリーマートに行けば予定外の宿泊であっても、ワイシャツや、パンツ、靴下まで購入できました。

出勤というよりも、職場で仮眠をしただけで、既に職場にいます。そんな日々を過ごしていると、小学校の頃にあれだけ嫌だった父の帰宅が、何だか違った視点で見られるようになりました。

様々な苦悩と戦いながらも、社会で務めを果たしている格好良い大人に変換されました。今なら小学生の時の自分に、父親がそこまで向き合えなかった気持ちも分かる気がします。

何より、池袋で一人暮らしをする折には、家具の配置や、清掃なども手伝ってくれて、社会に出る息子を少し誇らしげに送り出してくれる父親。

そんな一面もあるんだと驚いたけど、もしかしたらもともとそういう性質を持っていたのに、壁を作っていたのは自分だったのかもしれません。

その思いが決定的になった出来事があります。僕の小さい頃の写真をまとめたと連絡があったため、久しぶりに実家に帰った頃。その頃には僕も社会でだいぶ揉まれて、自分の弱さや自分のできていないところを素直に見つめられる強さを持てるようになっていました。

実家に帰って、たまにしか会えなくなった両親は、僕が家を出た時の記憶より少し年老いた気がしました。

「2階にアルバムがあるよ」

大して興味もなかったけど、そこまで言うならとかつての自分の部屋に向かいました。今では猫の部屋と化しています。

本棚からアルバムを手に取りました。思えば、4、5歳の頃の写真は見たことはあったけど、0歳児の頃の写真を見るのは初めてかもしれません。そこには、たくさんの自分の写真が載っていました。しかも、どの写真にもマジックで手書きが添えられています。

「〇〇年〇月〇日 パパが初めてお風呂に入れる」
「〇〇年〇月〇日 パパが抱っこするけど、少し嫌がる」
「〇〇年〇月〇日 初めて外に連れ出してパパが嬉しそう」

母親の字でそう書かれていました。衝撃でした。こんなにも愛されていたなんて知りませんでした。アルバムを見た当時、僕は30歳。

そんなになるまで、母親が父親をパパと呼んでいた時代があったなんて知りませんでした。そこには父と母が仲睦まじい頃の記録。そして、仲睦まじい夫婦の元に産まれた幸せそうな家族の姿がありました。

そのアルバムを見ながら、僕は涙を止められませんでした。

物心ついたときの家族への葛藤。家族同士のいさかい。板挟みにあっていた時期。両親のろくに会話しない関係。その全てを受容することができた瞬間でした。でも、受容したからといって、すぐに自身の性格を変容できるわけではありません。しかし、僕は家族という自分の闇を克服できたことで、人の闇と対峙できるようになっていきました。

人によっては、そんなことぐらいで闇と呼ぶなという人もいると思います。実際、専門学校で出会う生徒達は、もっと難しい家庭環境を抱えている人も少なくありませんでした。

でも、闇の浅さ、深さについて論じるつもりはありません。

僕が自身の経験から得たものは、人が蓋をしてしまいたくなるような過去について自分自身で受容できたとき、初めて人の弱さと向き合える強さを身につけられるということ。

いつまでも家庭環境のせい、人のせいにしていては得られない強さです。

“人の可能性をあきらめない”

これまで記載した体験から、「人の可能性をあきらめない」というのが僕の信念になりました。

今回は僕の原体験について書かせていただきました。何者でもない自分の物語は多くの人にとって興味が湧かないものだと思います。そんな中、ここまで読んでくださり感謝。

“自分の闇を克服した人間は、人の闇と対峙できる”

僕がどんな想いで、人の育成に関わっているのか、この原体験が生きています。

続きはまた違う記事で。最後までお読みくださり感謝。

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リーダ―育成コンサルタント

本間 正道
twitterID:@masamichihon

著書『リーダーになりたがる部下が増える13の方法』


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