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年頭にあたり:これまでのまとめ

日本の劣化が甚だしい。国民の実質負担率が増え続ける一方で所得は横這い。高齢化という微妙に難しい問題があることも承知しているが、一方で今の医薬がホントに役に立ってるのかという疑問も燻っている。いずれにしても、これでは国民の元気は出ない。

アメリカが象徴的で、これまでの常識では考えられないほど、世界も劣化していますが、そんなことは日本でも報道されません。第四の権力まで腐敗しているようです。

日本の政治の世界では安倍元首相が亡くなった後、これまでサヨクの攻撃に耐えてきた自民党も崩壊の一途をたどっています。改憲のふりだけ、中韓を批判するだけの似非保守政治家が本性を現わしてきた。特にLGBT法案、移民問題、グローバリズムなどサヨクアジェンダで化けの皮が剥がれてきたようですね。自民党の中で保守と言える人が残っているかどうかも疑わしいほど「3だけ人間」(金だけ、今だけ、自分だけ)だらけですが、もう救いはないのでしょうか?

そんな視点でこれまで投稿してきたことを少し整理して振り返っておきたいと思います。

■西洋では崩壊した絶対的価値

以前投稿したように、西洋ではプラトン以降育んできた絶対的価値などないことをニーチェが「神は死んだ」と喝破して以来、事実上絶対的価値がなくなりました。科学が多くの問題を解決してきたこともあり、宗教の領域も小さくなってきているのも背景にあるように思います。

絶対的価値がなくなると「何が正しいのか」という議論に論理では結論を出せなくなってしまいます。つまり、論理学では「AならばB」とは「Aという前提が正しいならば、Bは正しい」という主張に過ぎず、「ではAが正しいのはどうやって保証されるのか?」と問われれば、「Z→A」「Y→Z」「X→Y」…と、「証明不要で絶対に正しい価値」が現れない限り証明が続いていくことになり、それではAやBの正しさも保証されないことになります。

西洋ではプラトンの「イデア」以来、絶対的な存在(=価値判断の物差しとなる)を守り続けてきました。アリストテレスは「純粋形相」と呼び、キリスト教は「(人格)神」と、デカルトは「理性(によって認識されるもの)」、カント「物自体」、ヘーゲル「精神(によって形成されるもの)」と呼んできたものです。そしてそんなものはこの世に置けないので、あの世に置いて「人には見えないのだよ」と誤魔化してきた。

しかし、ニーチェの卓袱台返しによって、すべてが「無」になった。サルトルなどは実存とか現象とか言って、必死で何とかしようとしてきたが、混乱は今も続き、もう元に戻ることはないでしょう。

絶対的な価値みたいなものがどこかになければ、議論は論理では解決できず、社会はアチコチで分断され、政治などは現世利益的なものに堕落していくでしょう。「お金が幅を利かす社会」、「尽きぬ議論の末のヘイトや暴力」、「グローバリズムという新しい衣装を纏った共産主義」、こんなのが世界を席巻し、ここまで来たというのが正しい歴史認識ではないでしょうか。歴史は終わってなかったのです。

例えば、対立する人との交渉の原則は、まずはどこか合意できるレベルにまで論点を一旦引き上げることです。例えば、同じ会社の中での議論の場合は「この市場のこの問題を解決するのですよね」「わが社はこれを達成しないとならないのですよね」というハイレベルな合意を一旦確認して、そこから再びお互いに譲れる点/譲れない点を出しつつ、先ほどのハイレベルな合意点を確認しつつ、議論を下げていくことになります。しかし論理に頼っていたら、そんな「話せばわかる」ような社会ではなくなってきそうです。口での交渉が成り立たないなら、あとは力の勝負にならざるを得ませんね。

■啓蒙論と経験論、そして保守主義

論理で物事を解決しようというのは啓蒙論です。啓蒙論というのは「人間には誰にも共通の『理性』が備わっている」と考え、「世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって理解可能である」と考えることです。つまり「人間は優秀なんだ」という前提に立っています。その理性はいわば「人間の頭の中にある神の意志の出張所」です。つまり問答無用に絶対的に正しいものです。でもそれは壊れてしまいました。

では、そんな価値崩壊した社会をもう救うことは出来ないのでそうか?いいえ、啓蒙論の対極である経験論はその答えを用意しています。ここで、啓蒙論と経験論を対比させると分かりやすいと思います。少々繰返しになりますが、

・啓蒙論は、人間には理性が備わっているので「賢い存在」であると考えています。こっちは切れ味が良くてスピードがあって、なんだかカッコいい。特に、「自分は特別なんだ」と自認する人(トップアスリート、トップ芸能人、自他ともに認める優秀な技術者、ダボス会議参加者など)に多い。
・経験論は「人間の能力には限界がある」と謙虚に考えています。真理(そんなものがあるかどうかは別として)に近づくには経験を1つ1つ蓄積するしかないと考えます。従って、「経験」を忘れないように、無くさないように蓄積し、それが世代に亘って相続されていくことが最も重要と考えます。この経験論に基づく政治志向・生活志向が保守主義とも言われます。

■保守主義のポイント

ここから出てくる帰結として、以下のポイントが生まれてきます。

①保守主義が最も重要視するものは、「経験の蓄積と継承」。昔の王・貴族(日本では皇室)は「経験の継承者」であった。(※その更に昔は呪術によって自然の運行をコントロールし、共同体を救える者だった)その経験とは「歴史、文化、道徳、価値観、宗教、慣習、法、文学」などを含み、それらは決して思い付きではなく、歴史と伝統から時間をかけて何世代もの人々の目・経験を通して形成された経験則という訳です。時代を越えて引き継がれてきた価値はなかなか途絶えません。一人二人が「そんなもんダメだ」と思って捨てようとしても、残りの大多数は保持していきます。従って、そこに共通理解やルールが生まれてるので、安定した社会になります。

②更に、これまでの先代の努力と意思による経験蓄積の結果を引き継いできたので、その先代の努力に感謝と敬意を表する必要があると同時に、これらをより良い形で次世代以降に「引き継ぐ」ことが使命となります。

③次に、例えば国民主権という場合は「現在生きている国民の意志」に限らない。これまでの先代の意志も尊重され、子孫へのつながりを意識する必要がある。それは蓄積・相続された経験・歴史を重視することであり、だから「歴史」は重要なのです。先代はコレコレの時にシカジカを行ってきたことを理解することで、蓄積が更に厚みのあるものになります。

④共同体・家族・個人が正しい経験を蓄積し、「教育」によって次世代に継承される。なので「教育」は重要とされる。更に子孫の繁栄という意味での出産や教育の担い手としての「家族」も重要視される。そして将来の国の行く末に重要な意味を持つかどうかが、引き継がれるべきものが何かの重要な判断基準になる。

⑤動物と人間を区別するものは、社会という共同体の存在であり、具体的には経験の蓄積・継承の有無である。共同体には様々なものがあります。国、会社、町内会、マンション組合。それぞれに目的があり組織されており、それぞれにルールがあります。家族は動物にもありますが、共同体と言うのはプリミティブなものを除いてほとんどありません。

⑥啓蒙論が危険なのは、革命や革新があらゆるものを一気に変えてしまう可能性で、それは経験集積の破壊と言えます。そうなれば人間は一気に動物に転落してしまうこともあり得えます。

⑦「法(注:法律とは異なる)」とは経験や慣習から導かれる規範で歴史的事件や紛争解決の経験を保守主義が積み上げてきたものです。「法の支配」とは簡単に言えば、「法」に対する規範意識であり、これが重視され人々が規範意識を持っていることが共同体では重要です。「自由」はこの「法の支配」が前提(=制限)になっています。野放図な自由はやがて暴力と破壊につながっていく。(→フランス革命の暴虐とエドマンド・バーグが酷評したのがコレ)

■保守主義が提案する新しい価値基準

個々の人間はプレーヤ―として社会生活を営んでいます。動物のように家族という枠だけでなく、複数の家族が集まって「社会(=共同体)」を構成することで、種としての生き延びる確率、繁栄する確率を上げれたように思います。残念ながら共同体を営む限りは、「個人」が犠牲になることは、ある程度までは仕方のないことです。この理解が重要です。
共同体が与えるのは身体的な守りだけではありません。その共同体の中の共有価値は善悪の基準を与えてくれます。以前、西洋はニーチェによって共有価値が破壊されてしまったと説明しましたが、その影響が未だに続いています。論理や理性では新しい価値体系が出来上がらないのです。

そこで保守主義は新しい価値基準を提案しています。それは慣習・伝統で、何世代もの間数多くの人を目や頭を通してきたものです。「古臭い」のではなく、「古いから重要」なのです。そしてそれは日本という国を含めて、各共同体に残っています。多くの人が支持し、長く続いていることはそれだけで価値があると見なすということです。実際には既に多くの人がそれにどっぷり浸かっている、それも無自覚的に。身近な日本の例で言うと、運動部経験者は良く分かると思いますが「たとえレギュラーでエースのでも1年生は、たとえ下手っぴな補欠であっても3年生には敬意を表する必要がある」というもの。これについてアメリカで意見を聞いたら100%回答は「ありえない!」と。年下の上司が年上の部下にため口で偉そうにしている姿は、今の日本でもやはり醜く感じませんか?もっと言えば、憲法も本来は慣習を文字起こししたものですし、貨幣だって慣習です。伝統的価値と言うのは慣習、文学、芸術、教育の形で引き継がれます。ポイントは多くの人が長い年月支持してきた価値はそれだけで人を縛るということ。この世にも絶対的価値に使えるものがあると言うことです。

西洋の価値崩壊に引きずられて来ましたが、日本の思想的基軸の1つである(大乗)仏教は元々自立した絶対的存在を認めてません。すべては「空」であると。従って、西洋の価値崩壊の影響をモロには受けてはいないのではないでしょうか。とはいえ、日本も明治維新やGHQによるWGIPで過去の価値観が砕かれました。そんな絶対的な価値基準は絶滅の危機に瀕していますが、もう一度再確認することが日本(や世界)の再生につながるのではないかと考えます。

その延長上には資本主義というものの見直しも必要でしょう。
引き続き日本の伝統価値を発掘していきたいと思っています。

何か大きな事件がなければ難しいかもしれませんが。